麻をはじめ農産物、薪炭など大量の荷物を長野の町へ運搬するときは、駄馬の背に荷物を積んで運ぶ専門の運送業者を利用した。馬方とよんでいた。冬季には馬そりを用いて往復した馬方もいた。
馬方は、町へ売る農産物などを馬の背につけて、早朝暗いうちに町への道をくだっていった。鬼無里街道の途中(現在の裾花大橋の下あたり)に馬方茶屋が二軒、街道筋の横棚(茂菅(もすげ))の静松寺付近にも東の茶店、西の茶店の二軒があり、有名なトコロテンを食べながらそこで一休みして、長野の町へ到着するのは昼前後であった。桜枝町、新諏訪町、西長野町などには、こうしてやってくる人びとを相手にする馬方茶屋や蹄鉄(ていてつ)屋などがあった。桜枝町には、馬方茶屋が一軒、蹄鉄屋が一軒、荷物置場が三軒あった。馬方茶屋には経営者の家族も居住し、茶屋の施設として調理場、テーブル、腰掛、荷物置場、売店、のれんなどがあり、七、八頭の馬の休み場を含めて広い敷地があった。