現在のように交通の発達していなかったころは、里から山への往来は徒歩が主体であった。町の呉服屋が戸隠村、柵(しがらみ)村(現戸隠村)、鬼無里村などへ商いにいくのに、荷物を背負って狭い街道をのぼっていった。小荷駄といって馬の背につけていったりもした。だんだんと道もよくなってきたころは、運送屋に荷物を頼んで運搬してもらい、旅館などへ届けておいてもらった。山の人たちが一番必要としていたものは、半てん、モンペ、着物などにする生地であった。
長野から二〇キロメートル前後も離れているので、呉服屋が村に入って商いをしても日帰りするのは至難であった。さいわい戸隠村・鬼無里村には旅館があったのでその旅館へ宿泊し、旅館を拠点として、届けられてあった品物を小分けして近くの集落へ出かけて商いをした。旅館へ約一週間ぐらい泊まり、春は三月、夏は七、八月、秋は九月末ごろの年に約三回ほど行った。衣料関係の商店がなかったり、あっても遠隔地であるところへ行くととくに喜ばれた。手持ちの品物のほかに新たに農家から注文が出たものなどがあれば、昼間自転車のあるときは自転車に乗って、長野の店まで取りに帰ったこともあった。村のなかで、婚礼の話などを耳にすると、かけつけていき商いをしたこともあった。
芋井・小田切など長野の町に近い人は、週に一回ぐらい買い物におりてきて、衣類やそのほかの生活用品を買い求めていった。戸隠村・鬼無里村方面の人は、田植え市、盆市、えびす講、暮れ市などが開かれたときに大勢くだってきて買い物をしていった。
出入りの機会が多くなって商人と心安くなり信用されてくると、そのつど現金払いしないで、半年勘定(盆暮れ勘定)といって通い帳へ書きつけておき、盆の近くや年の暮れになるとその通い帳によって精算していた。小田切や芋井の人のなかには馬の背に薪や炭をつけてきて売り、帰りに衣料品店などへ寄って買い物をしていくものもあった。正月二日の初売りには、鬼無里村・戸隠村方面の人は夜中に家を出発して長野の町へ買い物にきたので、呉服屋のなかには早朝三、四時ころ開店して客を迎えた店もあった。六時ころまでには買い物をすませてふたたび山へ帰っていった。
商店では、小僧とか見習いなどの人手がほしいときは、商いにいったときや運送屋などに、呉服屋へ入りたい人がいないかさがしてくれるように頼んでおくと、「あの家の息子なら今年小学校を卒業するから」などと手配してくれた。見習いから番頭になった人のなかには山から来た人が多かった。