鍛冶屋と農家との交流

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農家にとって農具は大事な財産であり命であった。使用したあとは、水で洗ったり土を落としたりして手入れをよくして、作業小屋の道具掛けや板壁などに掛けて大切に保管してきた。鎌(かま)や鍬(くわ)などを長いあいだ使用していると、刃の先端がすり減ってきたり折れたりするが、すぐに新品を求めるのではなく、鍛冶(かじ)屋へ何回も先掛け(刃の修理)に出して使用した。

 鬼無里村・戸隠村・柵・小田切・芋井など山のほうにも鍛冶屋はあったが数少なく、町の鍛冶屋が修理品の注文を取りにくるのを待っていた。町の鍛冶屋は桜枝町・西長野町・新諏訪町・茂菅などに四軒くらいあり、山のほうの農家の農具や薪割(まきわ)りなどの生活道具の修理を専門の仕事としていた。

 車のないころは、自転車に乗ったり、坂道は押したりしながら、一週間に一回くらい修理品の注文取りにいった。修理補修するものは、鍬、鎌、押し切り鎌、薪割り、草かきなどであった。修理品を自転車の後部の荷台にとりつけた籠(かご)のなかに入れたり、背負ったりして自宅の仕事場まで運んできて修理をした。自転車に鉄類の重いものをのせるので、自転車に乗ってくるというより息をはずませながら引っ張ってきた。道は現在のように舗装されていないうえに狭い道で、家までたどり着くのは難儀であった。

 修理の終わった鎌や鍬などは、傷(いた)まないように新聞紙や布切れなどに一つひとつていねいに包んで注文先へ届けた。これが大変な仕事であった。鍛冶屋によっては、修理する品物を持ちにいったり届けたりすることを専門にしていた使用人がいた。年間でとくに忙しかったのは、夏が過ぎて秋の取り入れが始まるころであった。しかし、冬でも注文があれば山へあがっていったこともあった。

 山へ行ったときは、行き先の農家で昼食の接待をしてくれた。そのほか、オヤキやウスヤキを出してくれたり、庭先の土手からにらをつんできてニラセンベイを焼いてくれて、山の幸を味うこともあった。夕方遅くなってしまい、町まで荷物を運んでいくのが大変だから泊まっていくようにと勧められて泊まり、翌日も修理品を集めて帰ってきたことなどもあった。こうして農家の人と懇意になっていった。現在でもたまに山のほうへ行くと、年寄りが懐しがってかぼちゃやじゃがいも、生野菜をくれるなど、昔からのきずながつづいている家もある。

 山から町の鍛冶屋まで修理品をもってくだってきた農家の人もいたり、修理が終わるまで鍛冶屋で話しこんで待っていた人もいた。修理代は現金が多かったが、なかには野菜や穀類などと交換したお得意先もあり、互いに好都合であった。昭和二十四、五年ごろまで継続されていた。

 現在でも、七十歳代以上の人のなかには、鉄工所(鍛冶屋)に寄ったり野菜などを届けてくれたりする人がいる。なかには、二〇年も前に使った槌(つち)や薪割りなどを修理にもってきたりする人もいる。現在はそういうものを扱っていないが、長いつきあいなので、手間取ったり修理代も高くついてしまうが引きうける。物をいつまでも大事にしている山の人の気持ちを大事にしたいという思いがあるという。


写真2-37 鍛冶屋(桜枝町 平成9年)
丸山要提供