はじめに

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 職人のもつ技術や職人の手によって一つひとつ作られるものは、かつて人びとの生活や生産活動になくてはならないものであった。しかし生産手段の機械化や工業化によって、均質な品物が短時間で大量に生産されるようになると、職人の手によって作られる品物は、質は高いが製作に時間がかかるためだんだんと敬遠されるようになった。また生産手段の変化は、品質の善し悪しや人件費の高低にもつながり、値段の格差をも生むことになった。さらに、交通手段の発達がかさなって、商品の流通範囲が拡大し、工場で生産された商品が大量に出回るようになった。そして、それが職人の交易圏を侵食し、人びとの生活に大量の消耗品をもたらす結果となった。

 ただ、かつて用いられた職人の技術や品物は、一年中必要とされるものばかりではなかったし、毎日買わなければいけないものばかりでもなかった。そのため、農家の副業や農間余業としておこなわれるものや、一年間を通しておこなわれるものがあった。それではわれわれが職人とよんでいるのは、どのような人びとをさしているのだろうか。江戸時代の職人は手工業者に限定されていた。明治時代になると工場労働者は職工とよばれ、職人は伝統的な手工業者をさすようになった。しかし、伝統的な手工業者の種類について明確な基準はなかった。現在ではたとえばラーメンを作る料理人のことを職人ということもあるように、これまでわれわれが漠然と職人と考えてきた伝統的手工業者を含みながらも、職人にたいする認識は大きく変わりつつある。

 こうした職人の存在について、かつて長野市内でよくみることのできた職人の仕事や生活について、畳屋、屋根屋、曲物(まげもの)屋、桶(おけ)屋、鳶(とび)職などの仕事や生活をとりあげてみていくことにする。