旧善光寺町の横沢町はかつては職人町であるといわれたことがある。それでは、横沢町にはどのような職人がいたのであろうか。
表2-5は、元治二年(慶応元年・一八六五)から明治三年(一八七〇)までの五年間の横沢町の家々の家業について調べたものである。これをみると、五一~五二種類の職種に約二六〇人前後の人びとがたずさわっていることがわかる。このうち在セリ・在廻(ざいまわり)は、天秤棒(てんびんぼう)や風呂敷(ふろしき)で品物を売りにいく人のことをさし、飛商売は飛脚のことをさしており、阿め之鳥については詳細は不明だという。この家業調べには、日雇い、賃稼ぎなど具体的に何をおこなっていたかわからないものを除いて、多くの職種や商売の名前があげられている。
職人の内訳をみていくと、それぞれの年代でもっとも人数の多い鳶(とび)職を筆頭として、建築にたずさわるものでいえば大工、木挽(こびき)、建具、畳職、材木、表具などがあげられる。菓子職・菓子売や甘酒などのように自宅で製造・販売をおこなっているような職種もみられる。また善光寺が近いためか、数珠(じゅず)屋の存在もみられる。
このようにかつての横沢町には、人びとの生活に必要なさまざまな職人が存在していたのである。こうした職人は、職人町といわれた横沢町だけでなく、長野の他の町々にも数に多少の差はあれ存在していた。