長野市は、善光寺の門前町と旧松代藩の城下町を中心とする町と、それを取り囲む村の地域によって構成されている。旧善光寺町には、善光寺に出入りする職人たちがおり、また近隣の村々の生活に必要な道具を供給する職人が存在した。そして城下町であった松代町には、一般の人びとの生活に必要とされる職人のほかに、松代藩時代からの主要産業であった製糸業や織物業、染物業、製紙業、瓦(かわら)製造などにたずさわる職人の存在があった。また松代町近郊の西条村では水車業を営んでいる家が多く、明治以後もしばらくはおこなわれていたという。そして『松代町史』には、現在ではなくなったものとして、硯墨(けんぼく)製造業や硝子(がらす)製造業などがあげられており、こうした業種にたずさわる職人も存在していた。
このように町には、近隣村の人びとの生活に必要な職人ばかりではなくて、町で必要とされる職人たちも存在した。村の場合は、常駐する職人の種類は少なく、農業のかたわら職人としての技術を発揮するものが多かった。つまり草屋根を葺(ふ)く屋根屋は、主として茅(かや)や麦稈(むぎから)などの草で屋根を葺くことの多かった農村や山村にいることが多く、雪のない時期に仕事をしていた。また、戦前までは、村と違って町にはどの部屋にも畳を敷く家が多かったため、畳屋の多くは町で仕事をしていた。つまり職人や技術は、町や村などそれぞれの地域にかかわる伝承としての性格をもっていた。
そして専業の職人として生活できるのは、町を中心としてさまざまな地域の需要に応じて活動することのできる町の職人だった。その町の職人にしても、それを必要とする町の人口に左右されるから、昔は職人の数は全体としてそれほど多くはなかったという。しかし、明治から昭和にかけて、町の暮らしが周辺の村へ普及するのにともなって、町の生活に必要とされていた商品が村の生活にも取りこまれるようになってくると、需要に応ずるために、自然と職人の数は増加してきた。しかし、高度経済成長期をへて技術の機械化が進み、商品の大量生産が可能になると、技術は高いが手間と費用のかかる職人の仕事は敬遠されるようになり、しだいに職人の数は減少してきた。