町の畳職人

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畳は、かつての農村部では、家屋のなかのすべての部屋に敷かれていたわけではなく、一部の部屋だけに敷かれているものだった。そのため畳職人は、需要が多く、近隣の村からの注文も受けやすい町場に存在することが多かった。しかし、町の生活様式の普及にともない、村でもすべての部屋に畳を敷く家が多くなってくると、畳の数が足りなくなり、ハネダシとよばれた不良品の畳でも数が間に合わないような状態になったという。こうした需要によって村でも畳を作る職人が必要とされるようになり、長野市内でも昭和三十年代になると、畳屋の数が増加するようになったのだという。しかし、町の利便性を求めた人びとが村から町に移住するようになり村の人口が減ると、ふたたび需要は減少し、村の職人は減少するようになるのである。


写真2-39 畳屋の道具「包丁」
(鶴賀七瀬 平成9年)

 松代には、昭和十三年(一九三八)ごろまでは十五、六軒の畳屋があったが、現在では四軒しかない。これは住宅構造が変化して一軒の家の日本間の割合が減少し、カーペットやじゅうたんを敷いた洋間や、フローリングという板の間の部屋で生活する人が多くなったためである。

 畳屋の仕事には、新しい畳を入れる仕事と畳の表面のござ(畳表)を替える表替えの仕事があるが、生活様式の変化や家財道具の増加にともなって畳の表替えをおこなう人は減少しており、建築関係の業者から新規の畳入れの仕事が入る畳屋だけは商売をつづけていけるのだという。

 このように、全体として日本間の数は減ってきたが、日本間がなくなることはないうえに、大工の建てる家は、建てた家ごとに微妙に寸法が違うため、規格化された畳を工場で大量生産するわけにはいかない。そのため家ごとの間取りに合わせた畳をつくる職人の存在は必要なのである。また畳業者全体の数が減ってきた分、一軒の畳屋の仕事量は減らないため、当面商売をつづけていくことは可能である。しかし、後継者が育ちにくいため職人の数が減ってきた。

 建築関係では畳屋のほかに、建具屋も仕事が少なくなってきたという。