店を構えて、居職で営業をつづけているような職人は、技術をもっだ職人であると同時に小売店の経営者を兼ねている場合がある。こうした職人のなかには、代々の当主が同じ名前を襲名している場合もある。町場で職人が当主になっているような家では、当主自らも職人として仕事をこなし、ときには経営者として手腕を発揮し、さらに職人見習いたちの親方としての役割を果たし、さらに一人前になった職人たちのまとめ役になっていることもあった。
かつては、職人として一人前になるためには、まずそうした技術をもった職人のもとに弟子入りして修業しなければならなかった。弟子入りさせてくれる職人のことを親方といった。親方の家に小僧として見習いに入ると、職人として一人前になるまでは賃金をもらうことはなかった。しかし、時代とともにこうした職人の徒弟制にも徐々に変化がみられ、第二次世界大戦後の昭和二十年代には、職人の子弟でも学校に通うようになったという。また従来の徒弟制では、年季があけて一人前の職人になったあとも、二年くらいは修業した店でお礼奉公をしていた。そのため昭和二十年代ごろでも、兵隊にいった職人たちは、戦争から帰ってきたあとも、修業していた店に戻ってきたものだった。しかし、昭和三十年ごろになると、一人前になるとすぐに故郷に帰っていく職人が多くなったという。また現代の社会においては、旧来のような徒弟制のもとでの職人の育成はむずかしくなってきており、近年では、職人見習いとして親方のもとに弟子入りしても、会社勤めのサラリーマンのように月給制で給料をもらうようになった。
屋根職人のH氏は、父親の仕事を見て覚えたという。現在の中学二年生の年に小学校高等科を卒業するとすぐに父親に弟子入りし、着せてもらい食べさせてもらいながら仕事を覚えた。職人の家のこどもは、「親父(おやじ)の弟子になったんじゃ甘えていけねえ」といって、他人に預けられることも多かったという。五人兄弟のうち四人が屋根屋になり、父親といっしょに歩いて覚え、兄弟で組んで仕事をしていた。曲物屋などの場合も同様で、自分の家で修業することもあったが、知り合いの家に修業に出ることもあったという。
近年は、技術革新による機械の導入や材質の向上により、昔ながらの技術がだんだんと必要とされなくなり廃(すた)れてきている。そのため職業訓練校で後進の職人たちに、通常は必要とされない技術を教えている職人もいる。そのひとりの畳職人が教えている調度畳は、もっぱら寺院などで使用されているもので、一般には用いられることがなかった。そのため、こうした技術は徐々に忘れられてきている。学校に通ってくるのは、大部分は畳屋の子弟で、ふつうの畳に関する技術は家で覚え、学校で調度畳の技術を学んでいる。こうした調度畳を作る技術が必要とされたのは、長野が善光寺の門前町として発展してきたことと無関係ではないだろう。