桶屋の修業

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桶職人のU氏は、一八歳の年に、かつて父親が勤めていた東京の職人の家に葉書を出して、半ば家出のような形で東京に出ていったという。このときは親子で杯を交わして、縁切りのような形で家を出た。

 修業に入った東京の店は、お櫃(ひつ)と盥(たらい)の専門店だった。田舎で一人前になった状態で東京に出ていったため、親方は小僧には仕事を教えるが、すでに職人として一人前になっていたU氏には、仕事を教えることはなかった。そのため自分からも教えてもらうことはなかったという。


写真2-41 桶屋の仕事場
(鶴賀七瀬 平成7年)

 田舎の桶屋は、ジオケヤ(地桶屋)といって、酒樽(さかだる)以外は一軒の桶屋で何でも作らなければならなかったが、東京の桶屋は桶の種類によって専業化されていたため、風呂桶屋、地桶屋(味噌(みそ)などを入れる桶)、お櫃・盥などを作る桶屋が、それぞれ専門店化していた。

 東京では、お櫃や盥の蓋(ふた)と身(み)を一日に一六作るのが一人前の職人のノルマだった。U氏は一人前だったとはいっても、東京に出たてのころは、腕のいい職人の半分の仕事しかできなかったという。

 職人の起床時間は決まっており、小僧は四時、半人前は四時半、一人前の職人は五時だった。そして朝飯だけ全員いっしょに食べたが、昼と夜は弁当屋から届けられる弁当をそれぞれ仕事をしながら食べた。

 一人前の職人は、だいたい夜の一二時ごろまで仕事をしていたが、腕のいい職人は一〇時にはノルマをすませて仕事を終えることができた。仕事が終わると銭湯にいったが、風呂屋は桶屋の出す鉋屑(かんなくず)を荷車につけた箱に入れて集め、風呂の燃料として使っていたため、桶屋の職人たちは風呂代は無料だった。腕のいい職人は、「職人は宵越しの金はもたねえ」といって、一風呂浴びて一杯飲むのが日課だった。

 東京の桶職人の賃金は、田舎の三倍ぐらいに高く、田舎で八〇銭のときに東京では二円五〇銭だった。


写真2-42 鉋屑
(鶴賀七瀬 平成7年)


写真2-43 桶類価格表〈商品と価格〉
(鶴賀七瀬 平成9年)

 職人たちをたばねる親方は、小売商と同時に問屋を兼ねており、その親方の下についた弟子たちがそれぞれ一人前になって出ていき、また弟子をもち、その親方の問屋に商品を預けるという形をとった。U氏は浅草(東京都台東区)の菊屋橋にいた親方の弟子にあたる、現在の東京都荒川区日暮里二丁目にいた職人のところに弟子入りした。小僧として弟子入りすると、一人前になるまでに一〇年の年季が必要だった。

 U氏は徴兵検査を受けるために、出身地である七瀬(芹田)の父親のところに帰ってきた。しかし、帰ってからも父親のもとには入らず、市内の松屋という荒物屋に職人として入った。松屋には四人の職人がいた。当時東京に修業に出るのは珍しかったため、東京帰りの職人として、東京で仕事をしていたときと同じ破格の賃金をもらっていた。