出稼ぎ

474 ~ 474

修業で行くほかに、長野で仕事が暇になる時期に東京へ働きにいく職人たちも存在した。松代町の畳職人は、十二月になると暇になったため、一、二月のあいだは東京に働きにいったという。東京で働きはじめたのは、昭和五年ごろの浜口内閣(一九二九~三一)の緊縮財政のころだった。当時の弁当の値段は、八、九銭くらいだったが、畳の工賃は長野では一枚八銭だったのにたいし、東京では一〇銭だった。そのため一日働いて八〇銭だったという。