店を構えて営業をおこなう居職の職人のほかに、自分の店をもったり一定の店に居着いたりしないで、腕一本で仕事を求めて諸国の同業者を渡りあるく職人がいた。こうした職人のことを「渡り職人」とか「流れ職人」、「旅から来た人」などといった。渡り職人の仕事は、「ナグリ仕事」といって、手を抜いた粗雑な仕事の場合が多かったため、雇う側は用心した。東京には、こうした職人を取りしきる人がいて、長野の職人のなかにも、冬場に東京へ行って仕事を探すときに世話になった人もあったという。渡りで仕事をする場合、技術的にも数量的にも無理があっても、雇い主にいわれたとおりの仕事をこなさなければならないという無茶な一面もあった。
第二次世界大戦終了以後も昭和二十年代ころまでは、「ごめんなすって」と仁義をきり、生国(しょうごく)(出身地)を告げながら店に入ってくる渡りの畳職人がいた。家で人手が間に合っている場合には、わらじ銭といって、お金を包んだものを渡し、帰ってもらった。居職の職人のなかには、渡り職人にたいして物もらいにきたもののような感覚を抱く人もあった。依頼主の家のなかで仕事をおこなうことの多かった畳屋にとって、渡り職人は簡単に信用することのできない存在だったのだという。
また曲物屋にも、昭和五十七、八年ごろまで毎年、当時八〇歳くらいの職人が風呂敷包みをもって、「こんにちは、ごきげんよろしゅう」と仁義をきってやってきた。一年のうち春と秋にくることが多かったが、一度しかこない年もあった。名前を聞くのは仁義に反するため、どこのだれか聞くことはなかったが、他県の同業者の話によれば、同じ職人が新潟県などにも顔を出していたらしく、おそらくは日本全国の曲物屋を渡りあるいていたのではないかという。股引(ももひき)をはき、腹掛けを着け、半纏(はんてん)を羽織り、地下足袋(たび)を履いた職人らしい姿をしていた。本当に忙しい場合には手伝いを頼んだこともあったが、ふだんは頼むことはなかった。ポチ袋にお金を包んで煙草銭といって渡すと、「ありがとうござんす」といって帰っていったという。