これまでの善光寺の研究といえば、その多くが過去形として文書(もんじょ)のなかにある善光寺信仰、あるいは善光寺の形成過程を明らかにしようとするものであった。しかし、平成九年(一九九七)の御開帳にしても数多くの参詣者で、善光寺は大変なにぎわいをみせた。こうしたにぎわいをみるにつけ、いかにハイテクの時代になろうとも、善光寺への信仰は衰えるどころか、ますます深まり広がっていくのではないかと思わされる。してみると、善光寺信仰は分析すべき過去の事実として私たちの前にあるばかりでなく、今を生きる私たち自身の内側にも確実に息づいていることがわかるのである。
そこで、ここでは歴史的事実を明らかにしようとするのではなく、今を生きる人びとの善光寺とのかかわりや善光寺を中心とする景観、あるいは説話にあらわれる善光寺などを資料として、人びとの意識の深層にあって今も生きつづける善光寺の姿を明らかにしてみたい。善光寺への信仰を遠い過去の歴史的事実としてみるのではなく、幾重にも重なりながら今もそこにあるものとしてとらえることで、イメージの織りなす物語として善光寺を読み解いてみたいと思うのである。