多くの寺院は、江戸時代以来、その属する地域社会に檀家(だんか)をもち、檀家総代が寺の運営にかかわることで、維持管理につとめてきた。ところが、善光寺は宗派を問わず来るものは拒まないかわりに、通常の寺院のような檀家をもたないのである。檀家をもたない善光寺を組織面で支えてきたのは、善光寺のおひざもと元善(もとよし)町に何軒もある「院・坊」である。院・坊とは、もともとは善光寺への参拝客を泊めるための宿坊であるが、それ自体が一つの寺として、主人は「院」が天台宗、「坊」は浄土宗の僧籍をもち、善光寺へ奉仕してきた。現在、院は二四ヵ寺、坊は一四ヵ寺あり、院は大勧進(だいかんじん)、坊は大本願(だいほんがん)がとりしきっている。
院・坊では全国の信者を均等に割りふるため、江戸時代に持郡制(もちごおりせい)という制度を設けた。各院・坊の担当する地区を江戸と蝦夷(えぞ)地(北海道)を除いて、一山の申し合わせとして割りふったのである。院・坊では割りふられた地区を信徒地といい、信者の側では割りふられたのが坊ならば縁故坊とよんだ。参拝者の出身地で、宿泊する宿が自動的に決まったのである。今は旅行業者の介入によりくずれてしまっているが、この慣行は明治以後も残り、院・坊ごとに訪れる信者の出身地区はだいたい決まっていた。ただ、昔のほうが参拝する信者はずっと少なく、ある坊の記録によれば、江戸時代には年間で二〇〇人そこそこしか客がなかったという。昔の参拝者は、ほとんどが県外の講の人たちだったが、昭和三十年(一九五五)ころからは、旅行社を通じて個人、あるいは家族で来る人たちが多くなってきた。また、昔は年配の信者が純粋に信仰心から、「一生に一度は善光寺へお参りしようと思って」参拝することが多かったが、今はそうした人は少ないという。今は家族や一族で何度も訪れる人が多く、善光寺へ参ることで家族や一族のきずなを確認したり強めたりしているようである。
昔は信者の訪れる季節としては、春と秋がほとんどだった。春は彼岸過ぎからで、多くなるのは桜の花が咲く四月中旬から六月中旬まで、秋は九月の彼岸から十月の紅葉ころまでが多く、十一月のえびす講まではやってきた。秋に来る信者は、収穫した新米を善光寺如来に献ずることで御先祖様に捧げようと、新米を持参してお参りにきた。冬には訪れる信者はほとんどいなかったという。講で訪れた人びとは、宿に早く着いた人も夕方着いた人も、まずはオチャクマイリといって、何はさておき善光寺へお参りに行く。それから坊へ帰って夕食を食べて早めに休み、翌朝早く起きて善光寺の朝のお勤めであるオアサジ(お朝事)に出る。オアサジでは、先祖の供養などをお願いし、宿に戻って朝食をとる。これは、参拝するだれにもたいがい共通する行動だという。
院・坊の主人は善光寺事務局へ交代で勤務し、給与を受けとっている。つまり、善光寺という組織を実際に動かし管理しているのは、僧籍をもつ院・坊の主人だということになる。「坊」はすべて若麻績(わかおみ)一族で形成されている。伝承によれば、若麻績氏は善光寺の開祖本田氏から分かれたものといい、すべて親戚関係にある。かつて「坊」を継ぐのは、その家で生まれ育った男の子でなければいけないといわれ、娘はすべて嫁に出した。しかし、今ではこどもの数が少なく男の子が生まれるとは限らないので、嫁にいった娘の子でも男の子ならばあとを継がせてもよいことになっているという。
坊では、すべての坊から出席して青面金剛(しょうめんこんごう)をまつるツキナミ(月次)会という連絡会議を、毎月当番の坊で開いてきた。今はこの会を大本願の一室でおこなっている。