組織として地域社会が善光寺とかかわることはなかったとしても、千年以上にもわたって寺とともに生きてきた地域の人びとの心の深層には、何らかの形でその影が落ちているに違いない。そこで、ここでは善光寺周辺と境内の空間構造を比較分析することで、宗教関連施設の配置のなかから人びとの心の深層をかいま見てみたい。
まず、明治十二年(一八七九)出版の長野町図によって善光寺周辺の事物の配置を見てみよう。この地図は善光寺を北のはずれに描いており、善光寺が町の北の境界に位置していたことがわかる、そして石堂町から新田町、下後町、後町、大門町、元善町をへて山門にいたる南北の道路の東側と西側に町が広がっている。この道路の東西の位置に着目してみたい。
善光寺の西、地図では北西の隅に位置しているのは往生寺(おうじょうじ)である。往生寺は、西光寺(さいこうじ)とともに刈萱道心(かるかやどうしん)ゆかりの寺として知られている。両寺は絵解きの寺として知られ、道心とその子石童丸(いしどうまる)との悲しい親子の物語が語られている。善光寺の西の出入り口には、往生寺への石の道標が建ち、昔は善光寺へお参りした人はかならずといってよいほど往生寺にもお参りした。とくに中央線開通後は、非常にたくさんの団体の参拝客が来たものだという。今は絵解きを求める人がときどき訪れるだけで、善光寺への参拝客がそのまま訪れることは少ないが、かつては行列を作って訪れるほど広く往生寺の存在は知られていたのである。江戸時代の旅行家菅江真澄(すがえますみ)も善光寺へ参ったのち「しばしくまぐまをがみめぐれば、来迎(らいごう)の松といふあり。ここに刈萱道心の庵(いおり)して、むらさきの雲のむかえをまたれしといひ」(『久米路(くめじ)の橋』)と記し、往生寺へおもむいたことがわかる。石童丸と刈萱の話の詳しい分析はあとに譲るとして、ここでは往生寺は善光寺で修行していた道心が入滅(にゅうめつ)した地として、古くから広く知られていたことを確認しておきたい。往生寺は善光寺を眼下に臨む、善光寺の西の高台にある。臨終の時を迎えた道心がここを選んだと伝承されていることは、この地がいかにも出家者の死にふさわしい地として人びとに受け入れられていたのだろう。
善光寺を出て往生寺への参道への上り口のような場所にあるのが、湯福神社である。この神社は善光寺の西側の一五町内が氏子で、祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)である。この境内には大きな岩が本田善光の廟(びょう)としてまつられている。しかも、それは一方的に神社の側で主張しているのではなく、十月の例大祭には大勧進と大本願から正式にお参りにくるのである。これは大変興味深いことである。というのは、善光寺周辺の人びとは、仏になったら真っ先に善光寺如来に会わないと極楽に行けない、といってお骨をもってオコツアゲに訪れるのだが、当の善光寺内部に属する本田善光・刈萱道心といった人びとには善光寺から他界への道は開けず、さらに西の地でなければならないと考えられていた。つまり、善光寺の外部からみれば死後の極楽への通路は善光寺からつながっているが、善光寺の内部ではさらに西の地が極楽への道であったと考えられていたのである。