善光寺の東側の町の住民を氏子にしているのが、東町にある武井神社である。祭神は建御名方命・八坂刀売命(やさかとめのみこと)・彦神別命(ひこがみわけのみこと)である。例大祭は八月二十六日・二十七日で、二十七日の朝にはミサヤマサンといって神前に供えた萱(かや)の箸(はし)で小豆飯を食べる。ミサヤマサンは諏訪信仰にもとづくもので、この日祭りはしなくても、各家で萱の箸を使って小豆飯を食べる習俗は県下各地にみられる。この武井神社は、諏訪大社下社の大祝(おおほうり)家が武井氏であったことから、いつの時代にか武井氏の一族が諏訪社をこの地にまつったもの(『長野県の地名』)といわれる。諏訪大社下社は諏訪湖の北側にあり、祭神は一般的に八坂刀売命として知られている。八坂刀売命は、諏訪湖の南側にある諏訪大社上社にまつられる建御名方命の妻とされる。そこで、諏訪湖の御神渡(おみわたり)は上社から下社へ、夫が妻を訪ねるものだといわれているのである。武井神社を諏訪大社下社に模したものだとすれば、上社にあたるのは建御名方命をまつる湯福神社であろう。だとすると、諏訪大社の上社と下社が諏訪湖をはさんで南と北にあるのにならって旧善光寺町を大門町で東西に分け、西を湯福神社の氏子圏、東を武井神社の氏子圏と定めたとみることができる。善光寺信仰に諏訪信仰がどのように参入したかは定かではないが、いずれの時代にか善光寺信仰のうえに諏訪信仰が重なったことは確かである。善光寺と諏訪社という長野県を代表する寺社の信仰が、いずれかの時代にクロスしていたというのは不思議なことである。