善光寺の境内をみてまず気がつくのは、善光寺住職である大勧進・大本願のいずれもが、仲見世通りを中央とすれば西側に位置していることである。一般的に考えれば、善光寺を平等にになっている両者は、通りの両側に分かれて位置しているのが自然ではなかろうか。事実、西之門町の弥栄(やさか)(八坂)神社の御祭礼では、古くは大門を中心に町を東西の二組に分けてそれぞれが行列や山車(だし)を出し、西方は大本願が、東方は大勧進が祭りを支配した(『長野県の地名』)という。ところが、大勧進も大本願も西側にあるということは、東西に優劣の関係があって東側を嫌ったとみることができるだろう。そういう目で境内を見てみると、西側の特異な性格が浮かび上がってくる。本堂裏の西側部分には善光寺にまつわる人びとの墓所あるいは供養塔が建ち、西北の隅には昭和四十五年(一九七〇)に戦没者をまつる日本忠霊殿が建設されている。忠霊殿の北、善光寺の裏山にある納骨堂の西側には、五輪平(ごりんだいら)といわれる土地があり、死者の供養のために古くから五輪塔が建てられていたようである。さらに経蔵裏の西口付近には、これまでの御開帳で用いられた回向柱(えこうばしら)が林立し、さながら回向柱の墓地のごとき様相である。
そればかりではない。本堂西側の林立する回向柱の近くには、親鸞(しんらん)上人爪(つめ)彫りと伝えられる阿弥陀仏碑、少し離れて経蔵そして仏足石(ぶっそくせき)碑など、多くの宗教的諸施設がみられるのである。こうして、境内および近辺の配置から、本堂西側に霊的世界との強いつながりをみてとることができる。