善光寺縁起は『扶桑略記(ふそうりゃっき)』などにひかれてあり、歴史的形成過程や史実との対応を追うとすれば文献批判的検討が必要となろうが、ここではそうしたことには立ち入らず、縁起を物語として内容の分析をしてみたい。テキストとするのは、大正八年(一九一九)に大勧進が出版した『善光寺略御繪傳(りゃくごえでん)』である。資料としてなぜこのようなポピュラーなものを用いるかといえば、史実はともかく、これが善光寺(大勧進)に公認されて世間に流布したものであり、こうあってほしいという寺側の願いと、それを受け入れる民衆の側の心情が合致したものだと考えたからである。
『善光寺略御繪慱』では、善光寺の縁起をおよそつぎのように述べている。
(1)昔、釈迦の在世中、インドの毘舎離(びしゃり)国に月蓋(がっかい)という長者があった。初め月蓋は仏の教えを信じなかったが、一人娘の如是姫(にょぜひめ)の病気を治してもらったのを感謝し、阿弥陀如来の仏像を造った。
(2)その後、この仏は漢土・百済(くだら)の地をへて日本に渡った。百済王から渡された如来をどうするか協議したところ、物部(もののべ)氏・中臣(なかとみ)氏は受け取るなと主張し、蘇我(そが)氏は受け取れと主張するので、蘇我氏がまつることとなった。
(3)その後悪病が流行すると、物部氏は如来のせいだといってまつってある寺を焼いたが、如来は少しも傷つかないので、仕方なく難波(なにわ)の堀江へ沈めた。すると都に凶事がつづくので、帝はふたたび蘇我氏に如来をまつらせた。
(4)時をへてまた悪疫が流行し、これは仏法のせいだということになって、物部守屋に命じて、ふたたび仏像を難波の堀江へ沈めさせた。数年後、物部守屋は反乱を起こし、聖徳太子がこれを討った。
(5)聖徳太子が水底に沈められた如来を迎えようとしたところ、自分はここで待つものがあるといって、如来はまた水底に沈んでしまう。
(6)信濃国伊那郡麻績(おみ)の人善光(よしみつ)が妻弥生を連れて堀江を通りかかったところ、水中から如来が姿をあらわして自分を連れていけという。善光は如来を背負って帰宅し、臼(うす)の上にまつった。その後草庵(そうあん)を建てて、そこへ三度までも如来を移したが、そのたびに善光の家の西の廂(ひさし)に帰ってきてしまうので、そのまま自分の家に安置することとした。
(7)その後、如来のお告げにより信濃国水内郡芋井郷に移り、天皇の命により善光が建設したのが善光寺である。