つぎは、本田善光である。善光は伊那郡麻績の人で国主参勤のとき供奉(ぐぶ)して都へ上り、帰国する途上、難波の堀江を通りかかったものだという。そして、如来のいうには、天竺(てんじく)では月蓋(がっかい)長者、百済(くだら)では王として如来を助けたものが、この国では善光として生まれたのだという。如来と善光とは宿縁で結ばれているというのである。とはいえ、善光は長者ではなく、王侯貴族でもなく、もちろん僧でもないまったくの俗人である。しかも、如来は聖徳太子がまつるというのを断わって、あえて善光を選ぶのである。そして、善光が如来のために別に造った草庵をきらい、三度までも草庵から善光の家へ戻ってきてしまう。どうしても、俗人たる善光とともに在ることにこだわるのである。また、善光にしても僧にはならず、あくまで世俗にあって尊い如来をまつろうとするのである。ここにきて、仏でありながら世俗のなかでまつられようとする如来の姿と、世俗を離れず如来をまつろうとする善光の生き方が重なりあう。そして、このことがあとに述べる善光寺そのものの性格に深くかかわるものと思われる。