善光寺を舞台とする物語はいくつもみられるが、なかでも石童丸の話は、ゆかりのある西光寺と往生寺のいずれもが絵解きをおこなっていることなどもあって、広く知られている。その内容は、昭和三十二年(一九五七)ころに往生寺が発行した一般向けの絵本によれば、概略つぎのようなものである。なお、石童丸の話は中世の説教節から始まるものというが、ここでは話の系譜にはふれず、善光寺縁起と同様に寺と信者の両方が真実として願った話ということで、この絵本をテキストとした。
(1)筑前(ちくぜん)(福岡県)の領主松浦重氏は花見の席で、杯に桜の花が散りこむのを見て世の無情を感じ、えいくう上人の弟子となって髪をそり、坊さんとなった。ときに二一歳であった。
(2)ある日、箱崎(福岡市)の八幡様が重氏の夢のなかにあらわれて、法然(ほうねん)上人のところで修行しなさいと告げられ、その御告げのとおり京都の法然上人のもとで一三年間修行をしたが、国元から妻子の尋ねてくるのを恐れて京都をたち、高野山に身を隠した。
(3)一四歳になった息子の石童丸は、まだ見ぬ父に会いたいと母に旅立ちを願った。母もその真心に動かされ、ともに京都へ旅立ち、法然上人に父のことを尋ねると、父はすでに京都を去ったあとであった。
(4)父は高野山へと聞かされ、石童丸と母親はふもとのかむろの宿にたどりついた。高野山は、女は登ってはいけないきまりであったので、石童丸は一人で山に登って父を尋ねまわった。
(5)蓮華谷(れんげだに)の往生院で父重氏と会ったが、親だとは名乗られず、父は死んだと聞かされた。やむなく宿に戻ってみれば、母は旅の疲れか亡くなっていた。
(6)石童丸は亡き父母を慰めようと、ふたたび高野山へ登っていった。そして、父とも知らず往生院の坊さん、とうあ(刈萱道心)の弟子となり、道然(どうねん)と名乗った。
(7)お師匠さんの刈萱は、わが子といっしょにいるのは修行の妨げになるとして、高野山を下って信州の善光寺へやってきた。善光寺のお堂の前で、自分が安らかに眠れるところをお願いすると、善光寺如来が往生寺のところを授けてくれたので、そこで地蔵を刻み、八二歳で亡くなった。
(8)その後石童丸も善光寺へやってきて、父の刻んだ地蔵様を手本にして同じ地蔵様を造ったので、刈萱親子地蔵という。
手を変え品を変え、父子のすれ違いをあざとく語るこの物語は、時を超えて人びとに愛されてきた。父子の出会いと別れの場面を繰りかえす物語の構造は、どの場面から聞きはじめても理解でき、この話が語られたものであることがよくわかる。
石童丸の父道心は、修行のためにこの世での肉親との縁を何としても断ち切ろうとする。逆に石童丸は、ひたすら会おうと追いすがる。父は筑前から高野山、そして善光寺へとはるかに世俗を逃れていく。ところが、遠く離れたはずの善光寺で、死後ではあるがようやく父子としての出会いがかなうのである。このことから、通常ならば出会いが許されないものたちであっても、善光寺でならば認められるとする人びとの意識がこの話の背景として想定される。