謡曲「土車(つちぐるま)」も、同様に親子の別れと出会いを語るものである(野村戒三編『謡曲二五〇番集』)。
(1)深草(ふかくさ)の少将は妻に先立たれ、一子を残して出家し善光寺で修行している。そこへ母を亡くし父を失い狂ってしまった子が、物乞いをしながら父を探して諸国を巡り歩く途中に、家来のひく土車でやってくる。
(2)善光寺へ参った子を見て少将は一子であることに気づき、一度は名乗ろうと考えるものの、ここで会わないでおけば三界のきずなを断ち切れると思いなおし、黙って行き過ぎる。
(3)善光寺へ行けば父に会えると考えたもののそれがかなわなかった主従は、一晩を如来堂で過ごし翌朝川に身を投げようとする。
(4)身投げしようとして川と門前のあいだで逡巡(しゅんじゅん)する主従を深草の少将が止め、父であることを告げて親子の対面がなる。
先の「柏崎」は狂った母親と出家した子の出会いの物語であり、「土車」は出家した父親と狂った子の出会いの物語である。この場合の狂は、子(親)を失ったおかげで精神がこの世のものではなくなってしまった状態である。したがって、本人の体はこの世にいるかにみえて、精神はこの世ならざる世界に存在するのである。「柏崎」と「土車」の話の構造は、つぎの図からもわかるように、息子が娘に変わっていないだけで、完全にネガとポジの関係にあり、同じイメージのもとに作られたものであると想像される。
「土車」で、川に身を投げて死のうという主人にたいして、家来には「……さりとも善光寺にては尋ね逢ひ参らせうずると存じ候へども。今ははや某(それがし)も退屈仕りて候。……」と答えさせていることから、「柏崎」同様に、善光寺ならば許されないものも出会うことができるのだと受け取られていたことがわかるのである。