石童丸、柏崎、土車の三話は、いずれも中世に集団あるいは個人によって創作されたものであり、当時の人の心情に沿ったものだといえるだろう。では、なぜ親子は離れ離れにならなければならず、そうした親子が善光寺ならば出会えると受け取られていたのだろうか。三話はいずれも出家した親あるいは子と、俗世間に残された肉親とが善光寺で巡り会うというものである。これらの話が創作された中世は、
戦いのなかで肉親との別れや出会いが現実に数多く繰りかえされたことであろうから、モチーフとして人びとにすんなり受け取られ好まれるものであっただろう。しかし、三話の場合の別離は戦いが原因ではなく、出家である。出家者と俗世間に残された肉親とは、現実はともかく、会ってはならないものとされていたのだろう。そうした聖と俗とに引き裂かれた肉親が、善光寺でならば出会うことを許された。あるいは、出会うことがあるかもしれないと期待されたのである。
ならば、出会いの場としての善光寺という心情が、今も続いているのかどうかが問題となる。これを物語る話が新聞に掲載された(『信濃毎日新聞』平成九年十一月二十四日)。
長野駅近くで信州の特産品店を営む商店主から、こんな話を聞いた。十月初めの夕刻、店で土産物を買った老夫妻とことばを交わした。善光寺参りを兼ね戦友の消息を知る目的でやって来たのに、願いを果たせなかったという。ひどくがっかりして帰っていったので、何とか力になってあげたい、というのだ。一部始終を聞くと雲をつかむような話ではある。愛知県豊橋市に住むその人、八一歳の吉川章さんは終戦時まで、旧陸軍の北支方面軍司令部副官部功績班に軍属として勤めた。人生も残り少なくなり、当時親しかった同僚にぜひもう一度会いたい。その友は長野市近辺の出身で、姓は「早川」だが名前は忘れてしまったという。
状況は異なるものの、この吉川さんが善光寺の功徳に一縷(いちる)の望みをかけていたことは否定できないだろう。善光寺へお参りするのだから何とかなる、そう思わせられる気持ちは今も人びとのどこかに息づいているに違いない。ちなみにこの吉川さんは、新聞記事をきっかけとして、その後旧友との巡り会いを果たすことができたというのである。