松代は東条(ひがしじょう)氏の尼巌(あまかざり)城(尼飾城)、一六世紀の武田氏による海津城の築城、そして元和八年(一六二二)に真田信之が上田から転封(てんぽう)してからの松代城と、その城下町の形成は長いあいだにわたっておこなわれてきた。なかでも真田氏の統治は明治維新までつづき、現在の松代町に通じる基礎が形づくられた。三〇〇年以上にわたって、いわば地域の政治・経済の中心として存在しつづけたのである。
明治初年に描かれた「尼巌城下町絵図」(『市誌研究ながの』二号)によれば、城下町の成立がうかがえ、添書には肴(さかな)町には越後のいわし売りの女たちが来ており、祭礼には肴町のものたちが海津大門前に連なって参り、踊りをおどった、これが大門(おおもん)踊りの始まりであると述べ、さらに諸寺院の来歴が略記されている。添書には「源(ママ)書ノ儘(まま)写ス」とあるものの、原書が何であるかわからないし、絵図成立の経緯についても、小野塚安右衛門筆であることのほかは不明だが、ここには大門踊りや寺町など、この町独自の文化に関する伝承と解釈をうかがうことができる。
城下町としての性格をもち、特色ある文化をはぐくんできた町の暮らしも、日本の激動期である日中戦争から太平洋戦争、そして戦後の高度経済成長のなかで、大きく変わってきた。現在では観光資源の整備などを通じての、新たな町づくりが模索されているようだが、ここでは、現在に受け継がれている伝承のなかに、城下町としての松代の歴史がどのように沈着しているのかを見ることにする。