こうした町内構成や道路網は、大正元年(一九一二)測量の地形図(図2-30)を見ても大差がないし、また、弘化元年(一八四四)か二年の作成と推定されている城下町絵図や、それ以前の寛政年間(一七八九~一八〇一)の「松代御家中之図」でも基本的には変わりないといえる。弘化の絵図にある町名を見ていくと、南から同心丁、シン柴丁(新柴町)、新大(代)官町、大官町、竹山丁、竹山同心町、裏町、馬場丁、表柴丁、裏柴町、新小越(しんおこし)町、荒町、御安口(ごあんぐち)、松山丁、袋町、十人町、馬喰町、紙屋町、紺屋町、清須(きよす)町、片羽町、御馬屋町、木町、伊勢町、鏡屋町、鍛冶町、小越町、中町、肴町、コク(穀)丁、荒神(こうじん)町、上田(かみた)町、中田町、下田町、寺尾などがある。
そして、町の西端には神田川、東端には関屋川が描かれ、関屋川は千曲川に向かって荒町の南で二流に分かれ、一流は町の東端、もう一流は大英寺の西でふたたび二流に分かれ、東の一流は城のお堀とつながったあとに千曲川に落ち、西の一流は紺屋町・清須町の北側を西に向かって流れ千曲川に落ちている。この東の一流は小鮒(こぶな)川とよばれ、かつては中央橋のところには船着き場があって、千曲川通船で運ばれてきた塩や鮭(さけ)などを積んだ船が入ってきた。また、近代になって製糸場ができたのもこの川の付近だったという。つまり、松代城は北と西に千曲川、東と南に関屋川の分流があって、これら水流に囲まれている。また、城と関屋川分流のあいだには武家屋敷がある。ここには町名が記されていないが、現在の殿(との)町にあたるところで、紙屋町口、中の辻口、西木町口、御馬屋口に木戸が描かれている。
明治十六年(一八八三)調べの状況を記す『長野県町村誌』には、松代の町として、殿町、清須町、馬喰町、紙屋町、紺屋町、伊勢町、中町、荒神町、肴町、鍛冶町、大手先穀町、廐町、城裏町、田町同心町、田町、袋町、十人町、松山町、寺町、石切町、四ッ屋町、裏柴町、馬場町、代官町、竹山町、有楽(うら)町、新小越町などが記されている。
このように、松代の町内構成や町名は幕末以降、大きく変わることなく現在にいたっており、元和八年(一六二二)に真田家が入封して以来の構成を残しているというのは十分にうなずける。
長々と町のたたずまいを述べてきたが、町内構成や町名は、基本的には長い歴史のなかで現在まで受け継がれてきたのである。これはいいかえれば、この町の人たちや行政が町の構成や名称を伝承し、維持しつづけたということで、まさにそこに城下町の景観伝承をみることができる。文化継承の一つのあり方である「伝承」には、ことばや行為、志向性、造形物があることからいえば、町割・町内構成という造形物が町の人びとの歴史への志向性にもとづいて継承されてきたといえよう。景観は生活環境でもあり、これは決して自然のものでも、所与のものでもないのである。