こうしたところにも城下町づくりの景観伝承があったものと思われるが、現在の伝承として注目されるのは、侍町と町人町は神社祭祀(さいし)をめぐって明確な区分がつづいていることである。町人町はひとくちに「町八町(まちはっちょう)」とか「町八ヵ町」といい、延喜式内社(えんぎしきないしゃ)で、お諏訪さんである祝(ほうり)神社(鍛冶町)を鎮守としてまつる。侍町は、真田家の鎮守で、一時は県社として位置づけられた白鳥(しろとり)神社(松代町西条)をまつっている。この二社の祭祀は町内ごとに色分けすることができる。近代以降大きく居住者が変わった現在でも町内としてその歴史性が伝承されているのであり、城下町の景観伝承はこうした神社祭祀と密接な関係をもってきたことがわかる。
もう一つ景観と結びついている伝承としては、とくに町の南西部にある竹山町・代官町・馬場町・柴町などの家々が伝える来歴からは、これらの町内は城下形成の初期のものではなく、のちになって成立した町内であることと、その家々の暮らしが今でも屋敷のありさまに残されていることとを指摘できる。
谷街道から南にある、古い総構え跡ではないかといわれる土手跡の外にある侍町は、軽禄の中・下級武士が住んだところだという。その家禄は多くが三〇石から六〇石で、代官町には自家は沼田(群馬県)の家臣団から転じてのちに松代に入り、六〇石の禄高だったと伝えている家もある。馬場町のある家では、自家は松本に住んでいた鉄砲鍛冶で、真田家からよばれて松代に移り、そのときには二つの屋敷地を示され、現在の場所を選んだと伝えている。
総構え土手跡といわれるものの外は軽禄とはいっても、武家屋敷には変わりなく、冠木門(かぶきもん)や長屋門があり、家には式台がついていた。しかも屋敷の広さは五〇〇坪あるいは六〇〇坪がひと区切りで、広く区分されていたという。このように広い屋敷地があたえられていたのは、家禄が少ないので、屋敷地の三分の二ぐらいを畑にして作物を作るためだったといわれている。またホリとよぶ池を造り、江戸後期にはここで鯉(こい)を飼って、売ったり自家用にして生計の補いともした。
こうした侍町でも、現在では武家の流れをくむ家は少なくなっているし、武家屋敷の面影を残す家はわずかになっているが、今でも通りから家に入ると母屋の裏に畑や果樹園をもつ家があり、こうした家はかつての屋敷取りの姿を伝えている。また、ホリ(池)をもつ家もあって、この池は隣接する家の池とセギ(堰)とよばれる水路でつながっていたり、家の前を流れるカワ(用水路)から水を引くようになっているのも、武家屋敷時代の姿をとどめている。前に述べた町人町の間口(まぐち)規制、さらに右のような侍町の屋敷取りや池なども、城下町の景観伝承といえる。