延喜式内社で、お諏訪さんともよばれる祝(ほうり)神社が町人町の鎮守である。町人町というのは、前述のように「町八町」とか「町八ヵ町」といい、馬喰町・紙屋町・紺屋町が上三町、伊勢町・中町・荒神町が本町三町、鍛冶町・肴町が脇の二町とよばれた。現在はこれらに加え寺町・御安町・田町も氏子町内となり、一一町となっている。氏子総代は御安町と荒神町からは三人ずつ、他の町内からは二人ずつを出し、この人たちが中心になって祭りをおこなっている。
祝神社には西宮(にしのみや)社、稲荷(いなり)社といった境内社もあって、その祭りは境内社も含めて表2-8のようになっている。この「祝神社年中行事」は平成五年(一九九三)のもので、原則として各町内の氏子総代は全行事に参加し、大晦日(おおみそか)の年越初詣者迎えは和服、袴(はかま)着用、一月十五日の湯立(ゆだて)祭はスーツにネクタイ着用とされている。白鳥神社に比べると多くの祭りがあり、氏子総代は境内社の祭りも含めて年間二二日も諸役があるし、表に記されている年番になると、氏子総代の幹事役ということで諸通知や会議の準備などもしなければならない。年番とは総代のなかの四人が一年任期でつとめる役である。
祝神社の春秋の大祭は、平成五年には春は四月二十四日、秋は十月二日であった。通常は氏子総代と神官などで祭典がおこなわれる程度だが、十二支の寅(とら)年と申(さる)年には「御柱(おんばしら)」がおこなわれて町中あげての祭りになる。御柱は六年に一度で、前年の三月の総会に二本の御神木(御柱)の寄付の申し出がなされて寄付者が決まり、十月には御柱本見祭があって、翌年の三月に伐採し、四月に山出しをして奉納される。寄付された御柱は、一本は町の西端である馬喰町のはずれ、もう一本は東北端の東寺尾町に安置され、初日には馬喰町から祝神社に一本が引かれ、二日目には寺尾から神社へ引かれる。引くのは氏子町内全部がかかわり、各町内では山車(だし)を出し、全体では四〇〇メートル以上にも連なって御柱について回るのである。山車は現在はおとなしくなっているが、それでも御柱を引く町内では先頭に広報先導車、そして町旗、オンベ、裃(かみしも)姿の町役員、タッツケ姿の金棒引き、木遣(きや)り、このあとにこどもたちを中心に御柱の引き手がつづく。製糸業などで景気のよかった時代には、町内によっては上山田温泉の芸妓(げいき)をよんで山車に乗せて引くなど、盛大だったようである。『松代中町小史』(平成五年)掲載の写真によれば、中町では昭和三十七年(一九六二)には「弁慶名越の関」、昭和四十三年には「川中島合戦上杉・武田の一騎打」、昭和四十九年には「加藤清正虎退治」の造り飾りを取りつけた山車を引いている。
御柱祭を平成四年の場合でもう少し詳しくみておくと、この年は四月十八日・十九日が大祭で、御柱の曳行(えいこう)は十八日には馬喰町の公民館前を午後一時半に出発し、紙屋町、紺屋町から中央橋を通って伊勢町に入り、中町公会堂まで行って引き返し、伊勢町の河島屋の角を曲がって祝神社へというコースをたどっている。山車は田町を先頭に、紙屋町、馬喰町、紺屋町、鍛冶町とつづき、このあとに御柱、そして中町、伊勢町、御安町、肴町、寺町、荒神町の順番だった。山車は、午前中にそれぞれの町内を出発し、いくつかの町内を回ったあと、昼過ぎに御柱の出発地に集まっていっしょに回るのである。翌十九日は東寺尾に安置されていた御柱の曳行で、同じく午後一時三〇分に出発して、荒神町、中町、伊勢町から東木町に入り、そこで引き返して伊勢町の河島屋の角を曲がって祝神社に入るコースで、山車の順番は初日とは逆に荒神町が先頭で、田町が最後尾となった。