境内社の祭礼

525 ~ 526

大祭以外の祭りを略記しておくと、一月十五日の湯立祭は、神社に納められたお札類のお焚(た)き上げで、大きな釜(かま)で湯を焚く祭り。二月の初午(はつうま)祭は、境内社の稲荷社の祭りである。この稲荷社は真田家の御用達商人であった八田(はった)家の神社だったもので、祭りには甘酒を振る舞い、福引きもおこなわれたことがあるという。

 七月三十日の月の輪祭というのは、いわゆる夏越(なごし)の祓(はらえ)で、けやきと榊(さかき)で月の輪状のアーチを境内に作り、ここを神官を先頭にして参詣者がくぐる祭りである。テンデンクグリなどともよばれ、輪はけやきの枝などで作り、これに榊を付けたもので、赤ん坊がいる母親は抱いてくぐったりする。輪はくぐり終わると燃やして湯を沸かすが、この湯をもらってきてお茶にして飲むと風邪をひかないといっている人もある。

 八月二十七日の御射山(みさやま)祭は、ミサヤマとよばれている祭りで、氏子総代はお宮で茅(かや)の箸(はし)で赤飯を食べる。この日には各家でも茅をとってきて箸にし、赤飯を食べるのがならわしだといわれている。

 十一月一日・二日のえびす祭は、えびす講と通称されていて、もとは十一月十日であったという。主催者が商工会議所と祝神社になっているのは、商業振興を目的とした祭りと、祝神社境内社の西宮社の祭りの二つがあるということで、商店街は祭りにあわせて売り出しをするので人出でにぎわう。えびす講は、すくなくとも昭和初期にはすでにおこなわれていて、西宮社のところに、穂高(南安曇郡穂高町)から人形師をよんで源平の武者人形などを飾った。一〇メートル以上もある飾り山や菊などを並べ、お城の上では商店街が寄付をして花火をあげたり、象山神社にも穂高の飾りを出したりして町中が大にぎわいだったようである。祝神社参道の鳥居小路には、生のさんまを売る露店が並び、商店街へは保科(若穂)など周辺の村々から買物客が多く集まって、染物屋は呉服の展示会を開き、年によってはサーカスや見せ物小屋が立つという具合だったといわれている。