御祭礼

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侍町の白鳥神社、町人町の祝神社の祭りは、そのあり方に大きな差を認めることができる。これについてはあとで述べることにして、つぎには、松代の祭りとして重要な意味をもつ祇園(ぎおん)祭について記しておく。

 この祭りは「御祭礼」ともよばれ、松代町東条の池田の宮のお天王さん(牛頭天王(ごずてんのう))を迎えておこなわれる。池田の宮というのは、毎年正月六日夜の御田植祭、翌七日早朝の児玉石神事と包換神事で有名な延喜式内社の玉依比賣命(たまよりひめのみこと)神社のことである。お天王さんが祇園(八坂神社)で、この神を神輿(みこし)で迎えるのである。


写真2-63 玉依比賣命神社(松代町東条 平成7年)


写真2-64 祇園祭(松代町平成9年)

 祭りは「町八町」がおこなうもので、七月十三日が「天王下ろし」、同二十一日が「天王上げ」となり、周辺の農村地帯では松代の祇園までに田植えを終えるようにし、やはり多くの人出でにぎわった。十三日の天王下ろしというのは池田の宮から神輿を迎えることで、これに先だって各町内の氏子総代が、池田の宮にいって天王下ろしをしてもらう口上(こうじょう)を述べる。これによって神輿を下ろす準備が整えられ、十三日には東条の氏子総代たちが山門で神輿を見送り、松代に入ると八町それぞれのものが自分の町内をかついで回る。ただし、天王下ろしのときに回るのは八町のうちの馬喰町、紙屋町、紺屋町、伊勢町で、逆に天王上げといって神輿が池田の宮に帰るときには、荒神町、肴町、鍛冶町、中町を回ってから帰る。

 天王下ろしされた神輿は町内を回ったのち、中町に設けられた仮宮に安置され、十九日には前夜祭、二十日には本祭りがおこなわれて、二十一日に天王上げとなるという手順である。十九日・二十日には、各町内では屋台などを出して町内を練りあるく。たとえば伊勢町では、昭和八年(一九三三)に長野の権堂の獅子頭(ししがしら)を模して大きな獅子頭を作り、それ以来権堂と同じようにお囃子(はやし)や踊りで練りあるく。この獅子頭は、その後昭和二十三年に作りなおされ、祇園祭には「厄除勢(やくよけきおい)獅子」と記したお札を、希望者や伊勢町の全戸に配るようになった。

 祇園祭には屋台などのほかに神輿も出てまわるが、十三日の天王下ろしの日には大門(おおもん)踊りがおこなわれたこともあるし、一時は祭りの期間に流鏑馬(やぶさめ)などもあったという。大門踊りというのは真田侯がお城に戻るときに町人町の人たちが踊ったものと伝えられ、肴町が先頭になるのが恒例になっていた。これは最初に取り上げた「尼巌城下町絵図」の添書にある大門踊りの由緒にもとづいているのである。

 伊勢町公民館には祇園祭の獅子頭とともに、祭りの古い写真が掲げられていて、これを見ると往時の盛大さがうかがえる。屋台が出てまわる十九日・二十日には、年番の氏子総代が座を設け、池田の宮の氏子総代たちを招いて接待をするのも慣例になっていた。天王下ろしをして町中がにぎわった祇園祭は、現在では八町のうちから三町が抜けてしまい、しかも屋台を出すのは伊勢町と中町だけとなり、ややさびれてしまった感がある。池田の宮の天王さんの神輿も、一時はかつぎ手がなくなり、苦肉の策で神輿かつぎを委託したことがあった。のち、年番の町内の若いものがかつぐように変わり、近年はそれもむずかしくなって、車に乗せてまわるようになっているという。

 なお、祇園祭の期日については、昭和八年に商工会の要請で九月だったのを七月にし、昭和二十年には太平洋戦争のため九月十九日に東条でおこない、二十一年から二十四年も九月、そして昭和二十五年から現在の七月になったということである。