祇園祭については、「海津の御鎮守池田宮」(池田宮所蔵)という記録がある。これは寛永十二年(一六三七)二月の紀年をもつが、宝永年間(一七〇四~一一)以後の記録と考えられている(桐原健「玉依比賣命神社の児玉石神事」『古代研究』三四巻九号)。この史料によれば、慶長八年(一六〇三)に松代城主となった松平忠輝から祇園天王の祭礼料、神輿などの下賜があり、東条村中﨤(そり)町のお旅所(たびしょ)までの神輿下ろしがおこなわれ、翌九年六月に初めて松代中町へ神輿下ろしをするようになったと記されている。また、『松代町史』の玉依比賣命神社の項に記す社伝には「松代城造営以前尼巌(あまかざり)の在世のころは東条の台町・﨤町は御城下で繁盛しており、当社の東に市神が鎮座していた古跡がある。その後、往来が移るとともに市神も荒町に移り、さらに松代城が造営されて荒町から伊勢町・中町・荒神町に市神が移り、正月十一日のお蔵開きの日が市神祭日と決められた」とある。
これによれば、松代城造営以前は尼巌城下町として繁盛した地である﨤町に神輿下ろしがあり、松代城造営によって経済的な中心地が城下の伊勢町・中町・荒神町に移り、これにともなって市神も荒町をへて当地に移り、祇園天王の神輿下ろしも旧暦六月に中町までおこなわれるようになったということである。いずれにしても祇園祭は城下形成、商業地の成立と関連しながら現在のかたちができてきたようである。現在の神輿は嘉永五年(一八五二)に町八町で購入することを決め、大坂(大阪市)心斎橋宮屋治郎兵衛に製作を依頼し、翌六年に船で大坂から越後今町湊(みなと)(上越市直江津)まで運び、そこから陸路運搬されたものである。