2 城下町と祭祀

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 こうした城下町の町内構成は、ただ空間的な構造にとどまらず、松代では神社祭祀(さいし)と密接に結びつくことが、その継承・持続の力になってきたということができる。町人町はお諏訪さんである祝神社をまつり、侍町は真田家の守護神祭祀を受け継いで白鳥神社をまつっている。そして、これらの祭りの伝承をみていくと、白鳥神社では相撲、剣道、弓道、鉄砲といった力や武力にかかわる行事を取りこみ、藩主守護神、県社指定という神がもつ公的性格から、かつては学校行事として小学生の参拝がおこなわれたりした。これにたいして祝神社は、御柱とともに曳行される山車(だし)、境内社西宮社のえびす講の穂高人形師の飾り山、さらに町人町が主導した祇園祭の屋台など、そこに町人町の活力と風流的な発露をみていくことができる。

 こうした侍町と町人町の対峙的な伝承の反面、町内を単位とした秋葉神社の祭祀が顕著にうかがえ、ここには城下町を火災から守るという、政治・経済拠点の維持に町全体の思惟(しい)があったことがうかがえる。それは近代になると大火の経験から、皆神山の鎮火祭の祭祀が加わり、さらに大きくなったともいえよう。また、すでに江戸初期には成立していたと思われる池田の宮の神輿を迎えての祇園天王祭には、領主の神輿・祭礼料下賜と町人主導という姿をうかがうことができ、並行する市神祭祀とともに、城下町形成期の町のあり方をとらえる糸口があるように考えられる。

 町人町と侍町の祭りのあり方からは、両者には明らかに異なる思惟が存在しつづけたといえるのであるが、いっぽうに継承されている火伏せ信仰や、祇園祭の底流には、その二つの思惟をつなげていく役割があったといえる。ここに城下町としての松代の精神的な構造をみていくことができよう。


写真2-66 皆神神社(松代町 平成7年)