はじめに

534 ~ 535

 何らかの条件によって、少なくとも江戸時代には都市社会としての性格をもっていた地域をマチ(町)というなら、長野市域には真田家の城下町としての性格をもつ松代と、善光寺の門前町としての性格をもつ善光寺町の二つの町があった。松代は政治・経済の拠点として、善光寺町は善光寺への信仰や経済の拠点として成立し、展開をとげてきた都市社会で、それぞれは周辺の農村社会とは異なった性格をもっているといえる。

 都市社会がもつ、農村社会と違った性格というのは、それぞれの町が内部にもつ独自の性格と、町が外部である周辺地域との関係においてもつ性格に分けて考えることができる。本章の第一節、第二節でのべた町とサト(里)、町とヤマ(山)の交流は、後者による町の性格づけである。いずれも町が商業地として物流の拠点となり、生産と消費をめぐって多くの人びとが集う場となっていることを示している。また、第四節、第五節は前者の、町内部がもつ性格をのべたものである。善光寺町は、独自の信仰空間の構成と縁起をもつ善光寺を中心として形づくられた町であるところに、そして、松代は城下町時代の侍町、町人町の区分を現在も伝えているところに、町内部の性格があらわれている。

 「町」はこのようにいくつかの側面から性格づけることができるわけである。この節では二つの町それぞれの神社祭祀(さいし)のあり方から、町内部がもつ特色をみていくことにする。松代と旧善光寺町は、城下町あるいは門前町として成りたち、町としての性格は異なる面をもっている。こうした町の成りたちの差異が、神社祭祀の場面ではいかにあらわれているのか、あるいは成りたちが異なっていても、神社祭祀においては共通性があるのか、といった課題である。