祝神社は延長五年(九二七)に完成した延喜式(えんぎしき)の神名帳(じんみょうちょう)にも記されている古社であり、『松代町史』によれば、古くは東条村祝畑に鎮座し、現在地の伊勢町には里宮があったという伝承をもつ。慶長十三年(一六〇八)に松平忠輝が海津城の鎮守であった建御名方命(たけみなかたのみこと)と八坂斗売命(やさかとめのみこと)の二神を遷座合祀して社殿を再建し、松代の産土神(うぶすながみ)にしたとある。江戸時代には享保二年(一七一七)と天明八年(一七八八)に社殿が焼失し、再建されている。この神社の来歴については不明な点が多いが、伝承では「お諏訪様」と通称されており、町人町の鎮守として十二支の寅(とら)と申(さる)年には四月に御柱(おんばしら)祭がおこなわれている。八月二十七日には御射山(みさやま)祭があって、祭礼からいっても諏訪社であることは確かである。
それぞれの神社の祭祀組織や祭礼などについては前節で述べたので、ここでは触れないが、近世初期以降、藩主真田家とその家臣によって白鳥神社がまつられ、諏訪社である祝神社は松代の産土神として町人たちによって祭りがおこなわれてきたといえる。