町と町並みの拡大

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善光寺町というのは、善光寺の門前を中心とし、歴史的には長野村のなかの善光寺宿を中心に形づくられた町である・その範囲は八町(はっちょう)と御門前(ごもんぜん)といわれている。文政三年(一八二〇)四月の江戸での善光寺御開帳(ごかいちょう)のための御供人足役割帳(市誌⑬四四四号)によれば、大門町・西町・桜小路・新(しん)町・岩石(がんぜき)町・横町・東町・後町の八町と、隣接する善光寺領の七瀬村・平柴村・箱清水村から合計五〇人の人足が出ている。御門前というのは横沢町と立町の二町のことで、両町はそれぞれ善光寺大勧進と大本願直属の町であった。

 寛永十六年(一六三九)には大門町と、西町、東町に市立てが許され、天和二年(一六八二)には、毎月の一、四、六、九の日に「善光寺市」が立てられ、その範囲は西之門町・桜小路(桜枝町)・阿弥陀院町(栄町)・東横町・岩石町・東之門町などにも及んでいたことが明らかになっている(小林計一郎『長野市史考』)。市立ては一、四、六、九、十一、十四、十六、十九、二十一、二十四、二十六、二十九日の十二斎市(さいいち)となっていたのであり、近世前期には市立てを中心とした門前町ができあがっていたということができる。

 門前町としての町域は、その後しだいに拡大してくる。安政二年(一八五五)の善光寺門前町の絵図(『明治初期長野縣町村繪地圖大鑑 Ⅱ北信篇』)によれば、横沢町・桜小路・上西門町・西門町・立町・阿弥陀院町・西横町・西町・天神宮町・大門町・横町・東門町・伊勢町・新町・岩石町・東町・後町・下後町があって、これらの町々の周囲に箱清水村・長野村・腰村・妻科村・妻科村新田組・妻科村石堂(いしどう)組・七瀬村・問御所(といごしょ)村・権堂(ごんどう)村・裏権堂村・権堂村田町組・権堂村表田町組・三輪村田町組・三輪村の記載がある。

 また、明治十二年(一八七九)の「長野町図」(図2-32)では、横沢町・安良町・桜枝町・上西之門町・裏元善(もとよし)町・元善町・東之門町・横山町・新町・伊勢町・裏岩石・岩石町・法然堂町・西之門町・神明町・立町・栄町・西横町・東横町・清水・裏田町・東町・大門町・西町・長門(ながと)町・下西町・田町・裏権堂・権堂町・後町・下後町・新田町・石堂町があって、その周囲に箱清水村・往生寺村・狐池村・腰村・妻科村・鶴賀村・三輪村が記されている。


図2-32 明治12年出版長野町図

 鐘鋳(かない)川から北の善光寺町で形成された町並みは、しだいに善光寺参詣道である大門の通りを南へ広がるとともに、大正時代以降は東西の旧妻科村・鶴賀村へも拡大していくのである。大正二年(一九一三)の「長野市地図」によれば、明治十二年地図の町のほかに、西長野町・若松町・旭町・上縣(かみあがた)町・諏訪町・寿町・南縣町・末広町・石堂町・錦町・千歳町・問御所町などが新たに成立している。