善光寺三鎮守と町内

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善光寺町の各町内では、町内の神社とともに「善光寺三鎮守」といわれる武井神社、湯福神社、妻科神社をまつっている。

 武井神社は東町にあって、その氏子の範囲は善光寺仁王門北側の御玉屋小路から南の、しかも中央通りから東の地域である。そのため大門町は中央通りを境に東西で、東之門町は御玉屋小路を境に南北で鎮守社が異なっている。氏子町内は東之門町・伊勢町・大門町上・大門町南・岩石町・横町・東町・東後町・権堂町・問御所町・上千歳町・南千歳町・緑町・西鶴賀町・田町・柳町・居町・鶴賀七瀬など二六町内といわれ、八月二十六日・二十七日にはミサヤマサンといって御射山祭がおこなわれている。


写真2-69 御射山祭で萱と萱の箸をもらう (武井神社 平成9年)

 御射山祭は、氏子町内から祭典係が出て準備をおこない、二十六日の宵祭りに萱(かや)の箸(はし)を神前に供えて祓(はら)い、この箸をいただいて二十七日の朝に家ごとに小豆の御飯を食べる行事である。また、各町内からは神輿が出て神社に集合し、町内から出した獅子舞の神楽は氏子地域を上と下に分けて回っている。さらに武井神社、湯福神社、妻科神社、城山の水内大社の四社は、寅年と申年には順番に御柱祭をおこない、境内に鎌(かま)を取りつけた御柱を並んで立てる。御柱祭は七年目ごとなので、それぞれの神社では二八年に一度ということになる。御柱祭のときには町の商人などが御柱を奉納し、その木のある保科(若穂)の山などに神官と役員が行って祝詞(のりと)をあげてから伐(き)って運びだす。そして、二本の御柱は、祭りの番にあたっている神社の氏子地域を二手に分け、榊山や町旗、稚児、屋台や神楽などといっしょに引き回し、悪魔祓いの鎌を頂部に付けて境内に立てる。

 湯福神社は善光寺の西北、横沢町に隣接する地に鎮座し、社前から西へ戸隠道が通っている。境内にはけやきの大木とともに本田善光の墓といわれている廟(びょう)がある。湯福神社の氏子町内は、前述のように善光寺仁王門の北を東西に通る御玉屋小路から北の地域で、往生地・狐池・花咲町・横沢町・立町・桜枝町・西之門町・上西之門町・元善町・東之門町・伊勢町・新町・御幸町・深田町・箱清水の一五ヵ町内である。


写真2-70 湯福神社(横沢町 平成6年)

 善光寺周辺一帯が氏子地域になっているのが特色で、現在は十月九日・十日に祭礼がおこなわれている。祭りには、一五町内の高張提灯が神社に立てられ、宵祭りには神輿と神楽が西回りと東回りの二手に分かれて氏子地域を回り、参道入り口に集結してから年番の人が迎えて神社に戻る。翌日には、あらかじめ注連縄(しめなわ)を張り替えておいた本田善光廟に大勧進と大本願からお参りにきたり、湯立神事や奉納相撲がおこなわれている。

 妻科神社は鐘鋳川上流の妻科にあって、善光寺大門の中央通りから西の一四ヵ町内が氏子地域となっている。明治七年(一八七四)の「神社由緒録」(『神道大系 神社編』二四)の「妻科神社」の項には「本村妻科並(ならびに)長野大門町 西側ヲ限リ 西町・栄町・長門町古来ノ産土子(うぶすなこ)ニ有之(これあり)候」とあって、明治時代初期も現在と同じであったのがわかる。

 祭礼は「神社由緒録」では四月十五日・九月一日とあるが、明治十六年調べの『長野県町村誌』では五月十五日・十月一日と一ヵ月遅れに変わっている。現在は夏の土用の三日目に「土用三番虫よけ祭り」といって氏子地域の五ヵ所の辻に幣束を立てる行事、八月三十一日にはトウセンボとよぶ風祭りがあり、十月一日・二日に例大祭がおこなわれている。例大祭には神輿が出るほか、境内で「盛り花火」とよぶ仕掛花火が盛大におこなわれている。

 「善光寺三鎮守」とよばれる三社は、このように善光寺町を御玉屋小路と大門の中央通りを境にして三分するかたちで氏子地域が成りたっている。つまり、善光寺町は、町としての機能をもちながら、内部を三分してそれぞれが隣接する村々といっしょに武井・湯福・妻科神社をまつっているのである。別の言い方をするなら、武井神社・湯福神社・妻科神社の氏子地域の境界領域に善光寺の門前町があり、この門前町は市立てを中心に経済活動の拠点としての役割を果たしてきた。


写真2-71 妻科神社の虫よけ祭りの幣(妻科 平成6年)