善光寺町がもつ特色は門前町での市立てに加え、祇園(ぎおん)祭を伝えていることである。御祭礼と通称される祭りで、これについては第四章第六節に詳述されているので、ここでは概略だけにとどめると、まず、御祭礼は上西之門町の弥栄(やさか)神社を中心としているが、寺中祇園会(じちゅうぎおんえ)としても位置づけられ、善光寺もかかわりながらおこなわれている。
祭りは七月一日から始まり、この日には妻科の聖徳沖にある聖徳社でテンノウオロシ(天王下ろし)がおこなわれる。聖徳社のけやきの大木にオンベとよぶ笠鉾(かさほこ)を立てて天王を下ろし、このオンベを弥栄神社に移し、下ろした神を社の横にある石にまつる。オンベに使う紙は、善光寺大本願の前にある兄部坊(このこんぼう)が用意するのが慣例になっている。弥栄神社に紙が届けられると宮司がオンベを切り、これを妻科にもっていって妻科の人がけやきに立てる。天王下ろしは現在は七月七日に変わっていて、この日にはきゅうりが弥栄神社に供えられる。弥栄神社の宮司は、きゅうりを食べないことが家例で、今でも七日の天王下ろしまでは、これを守っているという。
御祭礼のもっとも華やかな場面は、十三日・十四日の屋台などの巡行で、各町内では十二日に「足揃え」といって自町内で屋台などを引いて回る。そして、十三日には二二ヵ町の御祭礼町の代表者が町名を記した町旗と笠鉾をもって弥栄神社にそろって参拝する。御祭礼町というのは、この祭りに参加する町内のことで、上西之門町・西之門町・桜枝町・元善町・東之門町・東町・大門町上・大門町南・東後町・権堂町・田町・問御所町・上千歳町・南千歳町・緑町・西鶴賀町・東鶴賀町・末広町・南石堂町・北石堂町・新田町・西後町の二二ヵ町である。
祭りは御祭礼町のなかから五町内が年番町に選ばれ、このなかからサキノリとよぶ先導役が出る。サキノリにはこどもがあたり、これを先頭にして屋台などの巡行がおこなわれる。巡行は大門の中央通りを境に東西に分かれ、通りの西の町内は大本願の支配となって西回り、東の町内は大勧進の支配となって東回りとなる。そして、十三日の夜にはサキノリの先導で、大勧進と大本願の馬印が先頭になって、各町内が弥栄神社にあがってきて提灯揃えがあり、十四日にはテンノウアゲ(天王上げ)といってオンベを弥栄神社から聖徳社に移し、けやきの木の上に立てて祭りが終わる。
祇園祭そのものは、文久二年(一八六二)の「善光寺西之門町九社神主斎藤家年中行事録」(市誌⑬四七二号)によれば、「六月九日 天王社疫神斎御赦(やくじんさいおはらい)ニ付当日昼御神楽執行、同夜疫神斎執行」「十日 今日疫神斎御祓、御両寺・三寺中役家并(ならびに)町々役元ヘ遣スベク事」とあって、疫神祭としての意味をもちながらも、サキノリを先導役とする屋台などの巡行に衆目は集まっていたのである。
また、祇園祭をおこなう御祭礼町も、元来は鐘鋳川から北の善光寺町の各町内であったのが、その後の町の拡大にともなって、現在の二二ヵ町内に変化してきたのである。御祭礼は、元来は、善光寺の門前町として市立てなどをおこなってきた町の祭りとしての性格をもっている。