松代と善光寺町に共通した町の心性を考えるときに、もっとも注目されるのが市立てである。松代の御祭礼での、池田の宮からの天王神の巡行は、市神祭祀をともなう繁盛の地へおこなわれたのであり、それは中世末までさかのぼることができる。
善光寺町での市立ても、天正九年(一五八一)七月に武田勝頼が栗田永寿(えいじゅ)と善光寺衆にあたえた文書から中世末までさかのぼることができそうである(小林計一郎『長野市史考』)。そして、善光寺町では横町と西町上で現在も市神社をまつり、市立てが市神祭祀のもとでおこなわれたことがうかがえる。さらに祇園祭には玉屋喜右衛門という商人頭と、市場の監督をつとめる職であったと推測される兄部坊が深くかかわっていたことが指摘されている(同前書)。善光寺町でも祇園祭の成立が市立てと関連していたことが考えられるのである。
松代と善光寺町にみることができる市立てと祇園祭の関連は、偶然の一致ではなく、ここには外界から神を迎えて祭りをおこなうことで市立てを継続し、「町」としての展開を図る心性をみてとることができよう。