浄土真宗の多いところや村内にアンジュサンのいるところでは、仏の立ち日ごとにアンジュサンやオッシャンを頼んで仏の供養をしてもらうところがある。安茂里小市(こいち)には浄土宗無常院と浄土真宗称名寺があるが、オジサイはしない。しかし、同じ安茂里の小路にはアンジュサンの住む庵(南俣ではリョウとよんでいる)があり、尼僧が村内の家々の仏の立ち日を把握していて、家々を回って仏の供養をしていた。もちろん、供養に歩くのは頼まれた家だけであり、それぞれの家の事情によりどこの家もがオジサイを頼むというわけではなかった。善光寺近辺のように町のなかに庵が一〇以上もあるところは特別としても、広瀬(芋井)・田子(若槻)・東条(同)・上野(うわの)(同)・稲田(同)・七瀬(芹田)・栗田(同)・南俣などのように村で庵をもっているところも少なくなかった。しかし、近年はアンジュサンの後継者がないうえに、村もちの庵の維持も経済的に大変なので、アンジュサンの活躍している地域は善光寺近辺などのわずかな地域のみになってしまった。
アンジュサンヘのお布施は一〇〇〇円から三〇〇〇円ぐらいで、お布施のほかに農家などではとれた野菜などをもたせたり、リョウに届ける場合もある。オッシャンのお布施に比べればアンジュサンのお布施は安く、オジサイにはオッシャンを頼まず、アンジュサンだけを頼む家も少なくない。リョウは村もちの場合が多いので、オジサイを頼むことによって、アンジュサンの暮らしがある程度保証されていたのではないかと推測する人もいる。
オジサイは、月々のことなので、その家の主婦などにその気がなければおこなわれない。それまでは姑が中心になってしていたが、姑が亡くなってしまったので、一年に一回の祥月命日(しょうつきめいにち)にだけオッシャンに来てもらうようにしたというような家もある。近年は共働きの主婦が増えたので、オジサイをしたくても家が留守になるので頼めない、などという場合も少なくない。また、田植えや稲刈りの農繁期には、寺やアンジュサンに連絡して、オジサイを休んでもらったりする。農繁期、オジサイの日であることを忘れて、家中が野良に行ってしまい、留守の家でオッシャンがお経を上げて帰っていったなどという話もあった。昔は、野良に行くのにも戸締まりなどはせず、ことによれば開け放したまま出かけたので、信頼関係で結ばれたオッシャンなどにはそうしたことが可能であった。
オジサイの前日あるいは当日朝になると、オニライサン(仏壇)をきれいに掃除し、新しい花や菓子・果物などを供える。仏の戒名が記された過去帳の部分を開き、経机の上などに置く。オッシャンあるいはアンジュサンがくると、まずはオニライサンの前でお経をあげてもらう。家のものはそのうしろに並び、途中でお焼香をする。二、三十分で仏の供養は終わる。終わるとお布施を渡し、お茶などを飲んでもらう。オッシャンやアンジュサンの訪れる時間によって、お茶を出すか、昼食を出すかなどが左右されるが、オッシャンやアンジュサンのほうでも「この家でお昼をいただく」と決めている家があるようである。家によって用意するものはさまざまだが、昭和四十年代から五十年代にかけては、お茶うけには家でとれる野菜を使った煮物をしたり、漬物・サラダ・寒天やゼリーを使った菓子などを作っていた。オヤキや五目飯などを作ってもてなす家もあった。世間話をしながらしばらくときを過ごし、オッシャンやアンジュサンは帰っていく。
また、かならず来るというわけではないが、都合がよければ分家に出たものや仏の兄弟姉妹、嫁に出た娘、村内で仏に親分をしてもらった人などもお参りにくる。手土産に菓子や花・果物・家でとれた野菜などをもってくる。お参りにくる人びとはたいてい午前中に訪れるが、場合によっては昼寝の時間などを使ってくる人もあり、嫁に出た娘などは一日ゆっくり過ごしていくこともあって、オジサイの日は嫁などは客の接待や食事の世話に追われることもある。結婚したての嫁などはこうした折に、オッシャンやアンジュサン、親戚の人びとの話を聞きながら、婚家の歴史や人と人との関係、村の家々のようすや習慣などをしだいに覚えていったのである。