葬式

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婚家の年寄りたちを看取(みと)り、葬式や年忌をきちんとおこなうことも、嫁にきた女性あるいは家を継いだ女性のつとめであった。人が亡くなると北枕に寝かせ、魔よけのために刀やかみそりなどの刃物を仏の上に置く。また、枕元にはナマダンゴを奇数個供えるが、これを作るのは主婦や親戚の女性である。ナマダンゴは米の粉で作ったので、こうしたものの用意を心掛けておくのも主婦の仕事であった。

 死者が出ると本・分家、仏のこども、兄弟姉妹、親戚、子分などに連絡がいく。このとき、連絡すべき家を落とさないように注意するが、戸主(跡取り)夫婦が相談して遠い親戚などのつきあいを意識的に切ってしまうようなこともあった。知らせはかつては子分などが二人一組となり、遠くの親戚などまで歩いて知らせにいったが、現在は電話で連絡をする。通夜の時間、告別式の時間のほか場所も連絡する。昔は自宅だったが現在は葬祭センターなどの場合もあるからである。通夜や葬儀に夫婦で参列する(二人づかい)のか一人(一人づかい)でいいか、手伝いの要不要、オトキ(お斎=告別式後の直会(なおらい))の席についてもらうか否か、などをこまごまと連絡する。それによって、香典の出し方やその後のつきあい方も違ってくるからである。不幸は不意にやってくるものであり、そうしたときにしっかりした対応ができるように、ふだんから心掛けて親戚づきあいなどをしておくのが主婦の大切な心得であった。

 戸主夫婦などが中心となり、本・分家や子分が手伝って葬儀の準備が進められる。親が亡くなれば、親戚の人びとには跡取りの長男夫婦などが新戸主夫婦と意識される。寺の都合を聞いて葬儀の日取りを決め、それまでの段取りが相談される。長野市域では隣組などの手伝いより、戸主夫婦を補助するように本・分家や子分、仏のこどもなどが中心になって葬儀の準備が進められる。長い間看病をした舅・姑が亡くなっても主婦はその悲しみに浸っているひまはなく、すぐに勝手の指図や葬儀の料理、引き出物などの準備をしなくてはならない。葬式のときにお焼香に来てくれる人びとのお悔やみを、戸主夫婦は縁先などで受けるが、戸主夫婦が喪服に身を包み、しばらくのあいだでも座っていられるのはこのときくらいであった。オトキの準備などのために、焼き場にも同行できない主婦も少なくなかった。現在は葬祭センターを利用したり、自宅で葬儀をしても料理などは仕出しを利用するので、主婦の負担は軽くなった。篠ノ井村山などでは、かつてマキのものなどはオトキの足しになるようにと野菜をもち寄り、親戚の人びとはオトキマイといって米を持参したり、まんじゅうや黒豆の入った強飯(こわめし)を食籠(じきろう)に入れてもち寄ったりしたものだという。もち寄られたものを上手に利用しながら集まってくれた人びとにふるまい、手伝ってくれている人びとにも過不足なく飲食してもらうのが主婦の力量であった。


写真2-79 焼香に訪れた人のあいさつを受ける喪主夫婦と家族(安茂里 平成6年)

 松代町では葬式の引き出物には、砂糖・茶・松代まんじゅうなどのほかに、抱えきれないほどの引き出物を出す家が多く、たとえ金がなくても精一杯のことをするように心掛けた。日々の暮らしはつましくても、冠婚葬祭などの特別なときには他家にひけをとらないよう、主婦は常々からやりくりをして蓄えをしたのである。

 また、湯灌(ゆかん)などの折に、仏の生前好きだった着物や一番いい着物を着せてやるが、嫁姑の折り合いが悪く、生前から姑の衣服などに嫁が関心を払っていないと、どれがいい着物なのか分からない。姑が亡くなったとき、浴衣を着せていて、本家や分家の主婦から注意された嫁の話などを聞くこともあった。こうした状態をつくり出さないように、重病人が出たようなときには、ひそかに家のなかを片づけたり、仏に着せる着物の点検をしたりして、死者を送るための準備をしておいた。農家では農繁期を迎えていたりすると、仕事の段取りも考えておかなければならなかった。どうしても人寄せができないような状態のときには、埋葬だけをして、のちに遺体のない葬式をすることもあった。篠ノ井ではこうした葬式をカラダミなどとよんだ。