生産と労働

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家の経済をいかに維持していくかは、生産と消費のバランスをどうとるかにかかっている。自家の経済状態をしっかり把握していなければ、家の経営はできない。かつて、嫁にすぐ財布が渡されなかったのも、何年間かのうちに家の経済状態、つきあいの範囲、労力と収穫物のバランス、収穫物をいかに利用してつぎの収穫期までを食いつなぐかなどといった、さまざまなことがある程度わかるようにならなければ、財布を任せても家は立ちいかないという考え方があったからであろう。

 また、嫁にたいしては「手間をもらう」という考え方もあり、ともかくは働き手として重要視する傾向があった。したがって、どこの村でも結婚式は農閑期におこなわれることが多く、秋の収穫が終わった十一月ごろから四月ごろまでのあいだが盛んであった。嫁にきて初めての年には四月と六月の節供(せっく)、農休み、盆・正月、里の祭りなどには里帰りをしたが、二年目以降は田植えが始まると、盆まではゆっくり休むことはできなかった。野良の仕事は一年中あり、舅(しゅうと)や姑(しゅうとめ)が休んでいいと許可を出さないかぎり、嫁は休むことができなかった。農家では一家総出で同じ田や畑に出て働く場合が多かったから、農作業のあいだも気を抜くことはできなかった。


写真2-81 野良仕事をする主婦
(若槻 平成8年)

 一生懸命働くことは、作業の能率を上げ、早くつぎの作業に取りかかることができる。それはよその家に負けないように、早め早めに繰りまわしよく作業をすることにつながった。野良の作物の出来、不出来は天候などに左右され、手を掛けてもかならずしも結果が良好になる保証はなかったが、かといって手を掛けないでいることは収穫量を落とすことになった。

 こうした野良の収穫物はかつては自家用が多く、現金収入は少なかった。そのため、少しでも現金を得るために広瀬などでは、若い嫁さんたちが安茂里・大豆島(まめじま)・南俣・徳間などにソウトメとして働きに出ることもあった。小さな子は姑に預け、ソウトメマワシが指図した家に行き、その家が終わるとつぎの家へと泊まりあるいて仕事をした。冬場になれば、藁(わら)を水車で打って柔らかくし、縄をなったりむしろを編んだりして賃稼ぎをおこなった。生家では藁仕事をしたことのない嫁も、姑に教わりながら覚え、しばらくすると他の嫁たちといっしょに一人前に仕事ができるようになった。こうして得た賃金は、生活費として家に入れる人が多かった。大正時代半ばから昭和時代初めに生まれた女性たちの生活である。


写真2-82 藁仕事をする女性
(芋井 昭和32年) 松瀬孝一提供