こうした嫁の生活を十年余送ったあと、「もうおれも年だから お前たちやれや」などといって、財布が渡される。それまでは嫁が自由にできる金などはなく、こどもに何か買ってやりたいものがあっても、なかなかいいだすことはできなかった。オイツキ(家つき)の女性のところへ婿にきた人は嫁にきた人よりはましだったが、やはり親が財布を握っているうちは、実家に帰って必要な金をこっそりもらってきたりしたという。財布が渡されるまでは、飯の盛りつけなども姑の仕事で、嫁は絶対に手を出さないというところもある。広瀬のあるオイツキの人は、オイツキでもシャモジをもつのは母親で、実の娘であってもシャモジには手をつけなかったという。母親に代わってシャモジをもつようになったのは、母親の足が悪くなって家のなかの仕事ができなくなってからであり、自然に交代した。
このように食物の分配は、家の経営にとって消費面での一分野の管理であり、ほとんどを自分の家のもので賄っていた時代には、重要な役割でもあった。それぞれが自分の好きなものを好きなだけ盛って食べていたら、毎日食べる量の計画はできない。分配する人が、どのぐらいの量を作るかを決め、指図をするのが一番合理的な方法であったともいえる。
財布が譲られるということは、村のつきあいや農作業の作付け・手順など、家の管理をしていくうえでのあらゆる面にたいして責任をもつということでもあった。先代から譲られたものを大きくしようとすると、さまざまな工夫もされる。たとえば家の周りにあるセンゼ(前栽)に何をどう作るかということは、献立と直結する。姑のやり方を改善し、同じ野菜でも少しずつ日を違えて蒔(ま)きつけ、収穫時期をずらすことによって、長い期間利用できるようにと工夫している主婦は少なくない。自分の家でとれる食料を少しでも無駄にしないようにという配慮からである。戦前の農家の女性たちは「栄養」などということを考えなかったが、戦後になって生活改善運動などの普及により、台所の改善とともに栄養のバランスの大切さが説かれるようになった。各地域の婦人会では、生活改善普及員などを招いて、料理の講習会などがおこなわれるようになった。南俣では田植え前後の農繁期だけ、当番を決めて共同炊事をおこなったこともあるという。