昭和三十年代半ばからの高度経済成長にともなって、女性たちにとって働く場所が増え、自分の力で賃金を得ることのできる機会がもてるようになった。長野市域の女性たちがパートタイマーで働きに出るようになったのも、三十年代終わりから四十年代初めにかけてである。野良仕事と育児は舅・姑に任せ、昼間の何時間かはパートタイマーで働き、なにがしかの賃金を稼いでくる。それまでの小遣いもなくただ働くだけであった親の世代とは、しだいに違った生活形態が生みだされてきた。
昭和四十年代はまだフルタイムで働く嫁や主婦は少なく、パートタイマーで働くあいまに家の野良仕事を手伝ったりすることができた。たとえば南俣などでも、当時はまだかなりの田畑があり、田をつぶしてアパートを建てたり、自動車展示場やガソリンスタンド、駐車場、喫茶店などに賃貸することは考えられなかった。先祖から伝えられた田畑は耕すのが当たり前と考えられ、主婦がパートに出るようになっても、以前と同じように田畑は耕作されていた。家で食べるものは家の田畑で作る、という姿勢はまだそう変化をみせてはいない。かつての農家の形態を引きずりながらも、現金収入を得る道も開け、食べるものは家のもので間に合わせ、現金は稼いだ主婦が自由に使えるという傾向がみられるようになった。もちろん、主婦の稼いだ賃金はすべて主婦が自由にするわけではなく、生活費として家計のなかに組みこまれたが、それまでのようにこどもに買ってやりたいものなどがあったとき、遠慮しながら舅・姑に頼んで出してもらう必要はなくなったのである。
そうなってくると、金をもつものの力や発言力がしだいに強くなってくる。また、そうしたさまざまな社会の変化に対応するように、「嫁は手間をもらうこと」といった考え方も衰退していく。最初から家事は嫁に任せ、家事にかかる費用も舅世代と息子世代で分担するような方法もみえはじめる。また、結婚しても共働きをつづけ、フルタイムで働く嫁も昭和四十年代後半から五十年代初めごろから増えはじめた。そのため舅・姑は家事や野良仕事を分担するとともに、さらに孫の面倒もみるという状態が出現するようになった。昭和四十年代に孫たちの面倒をみた舅・姑世代は、すでに孫が結婚する年ごろあるいは結婚して曾孫(ひまご)がいる状態を迎えている。