多様化した女性たちの生活にも、昔と変わりなく大切なこととして課せられていることは、子育てとつきあいである。
結婚した若夫婦にとって、こどもができるということは、家族の構成員が増えるということだけでなく、家の後継者ができるということである。とくに最初の子が男の子であったりすれば、長男相続が一般的であったので、跡取りができたと喜ばれたものであった。二男や女の子とは区別され、ことさら大切に育てられた。小さいときから「この家はみんなお前のものだから」などといって、跡取りであるという意識を自他ともに植えつけられて育てられた。もちろん、二番目以下のこどもがどうでもいいということではなく、親はそれぞれのこどもの身が立つように育てあげることを心掛けた。
高度経済成長期を迎えるころまで、跡取りは代々つづいた家業を継承していくのが当たり前と考えられ、二番目以下は分家に出してもらったり勤め人になって独立したりする方法が考えられた。
子育ては両親のつとめだが、野良に出て働く両親の代わりに昼間は祖母などが面倒をみてくれる家も少なくなかった。こうしたこどもに育てたいといった、はっきりした理想のようなものをもってこどもを育てる家は少なかったが、朝晩のあいさつ、食事前後のあいさつ、人に会ったときのあいさつなどはその折々に気をつけて教えるようにしていた。松代町の武家の家などでは、とくにしつけをきびしくした。人に笑われるようなことはしない、人に迷惑をかけない、家の外では物を食べないなどといったことをやかましくいった。お客さんが家にきたとき、その前でだらしないことをすることは「父さんが恥をかくことだ」といってこどもをいましめた。こうしたこまごましたしつけの成果は、やがて立派な息子・娘となって他人の目にとまるようになる。こどもの出来、不出来は母親(嫁)によるところが大きいと考える傾向は強く、こどもの出来がいいと「しっかりした嫁だから」といった社会的な評価がされた。そして、その母親の社会的な評価は、家のなかでの母親の位置づけにも影響をあたえた。
こうした傾向は今も形を変えて残っている。高度経済成長期以降、学校を終えるとほとんどの人が家業とは別の職業に就くようになった。「いい職業」に就くためには「いい学校」を出なければならない。そのためには、学校でいい成績を修める必要がある。母親の仕事はこどもをいかに人としてしつけるかではなく、いかにして勉強させいい成績のこどもをつくりだすか、という点で評価されるようになった。また、母親の学歴や職業も評価の対象となる傾向が出てきた。しかし、その結果として東京や大阪の大学に入り、そのまま都会で就職してしまうこどもなどが増えている。そして、故郷にある家には帰らず、ことによればそのまま都会に居ついてしまうような状況もみられるようになった。稲葉のある家では、娘が二人ともよそへ出てしまい、両親だけが家を守っている。かつてのように家はぜひとも継承させていかなければならないものとは考えなくなり、むしろ両親亡きあとにはどう処分すべきかを考えなければならない状態も生まれている。