つきあい

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こうした社会の変化はつきあいのあり方にもみられる。かつては歴史のある家ほど人が大勢集まり、人が大勢集まることは、その家が栄えているしるしと考えられていた。結婚のさいのオヤブン(親分)などを依頼するときは、古くからの家で、なおかつ人望のある夫婦を選ぶことが多かった。したがって一つの村のなかでも親分を頻繁に頼まれる家は、何かことがあると子分たちが大勢集まったし、日常的にも人の出入りが多くならざるをえなかった。「人の出入りの多い家は栄える」と背からいわれている背景には、そうした事情があったともいえる。しかし、いくら旧家でつきあいが多いといっても、その家の嫁や主婦の応対の仕方によっては「気位が高くてとっつきにくい」「敷居が高い」「陰気で」などといったさまざまな評価が立つ。

 隣り近所との日常のつきあいも大切である。けがや出産や病気の見舞い、新盆(あらぼん)やアラドシのあいさつ、正月よび、新築祝いなどことあるごとに、状況に適したものを持参しなければならない。たとえば出産の見舞いなど現在は金を包んでいくことが多いが、昔は米の粉やかんぴょうをもっていくところが多かった。田子では石臼(いしうす)で粉をひき、重箱に米の粉を入れて持参し、産婦を見舞った。お返しは七夜(しちや)か二十日目のヒアケに重箱にオコワ(赤飯)を入れて配った。栗田などでは、病気見舞いなどには家で飼っている鶏の卵などをもっていくことが多く、菓子の空き箱などに籾殻を敷いて卵を並べてもっていった。病気が治ると快気祝いにオコワをふかして重箱に入れて配った。快気祝いのお返しには、マメになるようにとアオバタや大豆などの豆類を使った。古くはツケンパ(付け木)などもよく使われたものだという。つきあいにはこうしたさまざまな贈答がつきもので、それぞれに決まりがあり、快気祝いをもらって空の重箱を返したりすると、「気のきかない嫁だ」「何も知らない嫁だ」などといわれた。

 また、南俣など多くの地域で、野菜の初なりやかわりものをちょっと前掛けなどでおおうようにして、親しい家と行き来をしたものであった。「寄りっさい」などといわれてそのまま上がりこみ、お茶を飲みながら野菜のできばえや料理の味付けの話などをし、帰りには相手の家の煮物などをお返しにもらって帰った。お茶を飲みながらセンゼに作る野菜の情報交換をし、野菜の種を交換しあったりもした。第二次世界大戦後はこうした日常のつきあいのなかで、年が似通った人、気の合う人などでグループを作り、そうした人びとが中心になって生活改善運動などを進めていったりもした。生活改善普及員を頼んで台所や食生活の改善についての話をしてもらったり、農業技術指導員を招いて農業技術の向上につとめたりした。女性のつきあいも、しだいに家のなかやその周辺だけでは完結しなくなっていった。


写真2-87 お茶のみ(若槻東条 平成10年)

 このように時代の流れのなかで、女性の活動範囲はしだいに広がりつつある。かつての家制度のなかで、舅・姑などのいうことを聞き自分を殺しつつ家の存続だけを考えていた時代は終わった。そうした流れのなかで「家を繁栄させる」とはどういうことか、さまざまな考え方があろう。女性たちのつきあい方の変化をみていると、舅や夫などの男性たちと並行するように自分たちもさまざまな人びととの質の違ったつきあいをもち、そのなかから見聞きしたことを家経営に生かそうとしている。女性たちの知識と知恵が「家を繁栄させていく」ことにつながり、さらには、町や村のなかに家や自分をどう位置づけ、どう生かしていくかを考えていくことにもつながっているのである。