村の人びとからみると、町に暮らす人びとはおしゃれでハイカラである。とくに大店(おおだな)といわれる商家に暮らす人びとは、ともすれば別世界に暮らす人びとのようでもあった。旧長野町に古くからある造り酒屋の娘として大正時代初期に生まれたAさんは、五、六歳で幼稚園にいった。近在の農家などでは、祖父母に面倒をみてもらったり、兄弟姉妹が子守をしていた時代である。幼稚園は女学校の付属のような幼稚園であった。女学校に制服ができると幼稚園児も、前を着物のように合わせた筒袖の上着にスカートのようにひだのあるはかまをはき、靴をはいていった。そのために「小さい女学生さん」などといわれた。制服ができるまでは、紺がすりの着物に、白いエプロンをかけて通った。夏はたもとの長い浴衣を着て、やはりエプロンをかけていった。
小学生のときは母親が作ってくれた洋服を着て通い、日常、着物は寝巻きとして着るぐらいのものだった。昭和時代初期の娘たちは、髪を横で分けて三つ編みにし、ふだんは簡単なワンピースなどを着ていた。よそゆきには、着物を改良したようなワンピースなどを着て、靴をはいていった。しかし、着物がないわけではなく、親類に結婚式などがあると、振りそでなどを着ていった。若い娘は親戚の結婚式などに、給仕を頼まれたり、歌や踊りの余興を頼まれたりすることが多かった。また、大店ゆえにつきあいも広く、旧長野町界隈(かいわい)だけでもしにせのそば屋・呉服屋・料亭などの親戚があり、結婚式などによばれることが多かった。
こうした家々とは冠婚葬祭だけでなく、夏休みなどには母子でキャンプにいって楽しんだり、冬はお楽しみ会などを開いたりした。しにせの商家同士のつながりで、希望社という修養団体に入って正しい生活のあり方などを学んだりもした。娘たちの習いごとなども、大店の家々の同じ年ごろの娘といっしょにおこなった。たとえばお茶は小学校のときから、週に一度アンジュサン(庵主さん)のところへ習いにいったし、お花も少し大きくなってから大本願や院坊へ習いにいった。ピアノは妹といっしょに女学校の先生について習った。小学校を附属に通わせたのも、そうした大店同士のつながりから得た情報によるものであったし、女学校を卒業後羽仁説子の自由学園に入学したのも、市長の娘が入学し、すばらしい学園だという情報によるものであった。