Bさんは父親が慶応義塾大学卒業後、中央の政財界とつながる仕事をするなかで育った。生活は質素を旨とし、ぜいたくやむだづかいは戒められたが、いっぽうこどもたちには広い世間を見せようという努力も怠らなかった。こどもたちを東京に連れていって洋食を食べさせたりするのも、そうした方針の一つであった。
ふだんの食事は朝食がパン、目玉焼き、果物、紅茶か牛乳といった洋風のもので、大正時代から昭和時代初期にこうした朝食をとる家は少なかった。御飯は戦争中から戦後にかけてしばらく麦御飯を食べたが、それ以外は白米で、弁当にはタラコや玉子焼きを入れてもらった。夕食は父親が先にすませ、残りの家族がいっしょのテーブルについた。夜はかならずお吸い物が出たが、父親にだけはふたつきのお椀を使用した。夏はそうめんなども食べたが、そばはそば屋へ注文して取り寄せることが多かった。お手伝いの女性が二人と書生が一人いて、食事は母親が指図をしてお手伝いの女性が担当していた。食事については栄養をとらなくてはならないという知識はあったが、食糧事情の悪い時期もあり、決してバランスのとれたものではなかった。
県町の生家の隣には外国人が経営する幼稚園があり、Bさんはそこに通った。したがって、幼いころから英語になじみ、洋風の生活に接していた。そうした影響が強かったためか、三、四歳ごろ、兄が軽井沢から洋服を買ってきてくれてから、洋服を着て育った。寝巻きにもネグリジェを用いていたので、着物と洋服との二重生活という経験はない。着物を着たのは仲人をしたときぐらいで、本人の結婚式も洋装であった。長野市で三人目の洋装の花嫁といわれた。