院・坊の暮らし

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善光寺周辺には善光寺参詣にきた信者を泊める宿坊が四〇軒近くある。講を組んで参詣に訪れる人びとや、家族連れなどが多かったが、現在は若い娘たちがグループで訪れることもあるという。かつては「一生に一度は善光寺へお参りしたい」という信者が多かった。

 天台宗の院・浄土宗の坊はいずれも、その家で生まれ育った男の子が跡を継ぎ、女の子はすべて嫁に出した。院・坊の主たる仕事は善光寺と講中などの仲立ちをすることで、先祖供養の回向(えこう)の仲介、納骨の依頼の仲立ち、骨開帳(こつがいちょう)の手配、善光寺の案内などであった。忙しいのはふだんの年は春から秋にかけてで、冬場は参詣者も少なくなる。『善光寺さん』(小林計一郎)によれば、昭和二十年代には越前(福井県)方面などに、檀徒(だんと)回りに出かけた院・坊もあったという。七年に一度の善光寺御開帳の年はどこの院・坊も参詣客でごった返す。

 院・坊に到着した信者は、夕方まずはお着き参りをして夕食を食べ、早めに休んで翌朝善光寺のオアサジ(お朝事)に出る。オアサジをすませて院・坊に帰り、朝食をとってお血脈(けちみゃく)やお守りなどを土産に帰途につく。

 こうした信者たちを迎え、食事を出し世話をしてくれる裏方の仕事は、院・坊の嫁や主婦である。明治十年(一八七七)刊の『善光寺繁昌記』によれば、きれいに掃除をし、たばこ盆を用意し湯をわかして信者の到着を待っている。信者が到着するとお手伝いの女性が出迎えて、荷物を部屋に運んでくれる。信者は足を洗い、部屋に案内されて一休みしていると、住職が出てきて道中の無事をねぎらい、参詣の案内をしてくれたという。

 信者を気持ちよく迎えるため、あるいは送りだすために、嫁は朝早く起きて道を掃除し、打ち水をする。信者に出す食事の献立を考えるのも、嫁や主婦の仕事であった。ある坊の嫁は「女はずくをやんではいけない」と、姑(しゅうとめ)からしょっちゅういわれていたという。また、客と接する機会の多い仕事だけに、身支度は常にきちんとしていなければならなかった。夏場になるとどこの院・坊でも、着物を作り替えるために張り板をもちだして、洗い張りをする家が多かった。しかし、女は住職の衣に触れてはいけないといわれていたが、戦後は妻がアイロンかけをするようになった。

 また、院・坊の嫁や主婦の集まりとして大正十一年(一九二二)にできた「和光会」という親睦団体があり、旅行に行ったり食事の献立の情報交換をしたりしている。