松代町のCさんは農村部の岩野(松代町)から、松代の町中へ嫁いできた人である。生家では養蚕を手広くおこない、当時、村一番の出荷を誇ったほどの家であった。人を雇わず、家族の労力だけでおこなっていたので、幼いCさんも桑運びなどに駆りだされる毎日であった。チュウマイ(中繭)やタママイ(玉繭)は規格外であったので正規の繭としては売れず、家に置いて糸をとったが、それらの糸で機(はた)を織るのは母親やCさんの仕事であった。ちりめん・つむぎ・かべ・御召(おめし)などたいていの織物はでき、自分の婚礼衣装も全部自分で織ったものを使って準備した。当時は一人前の女性の条件として、機が織れたりお針ができることは当たり前のことと考えられていたのである。
そうした暮らしをしていたCさんに結婚話があって、町中に嫁いできたのは昭和三年(一九二八)のことである。そこは松代町のなかでも商家が集まってくる町で、婚家も酒をはじめとして食料品全般を扱う店であった。嫁いで間もないころは店番をしていてお客さんが「こんにちは」といって入ってきても、「いらっしやいませ」ということばがすぐに出てこない。なかなか慣れない習慣であった。姑は客が「こんにちは」といって入ってくると「おいで」といって迎えていた。生家のあたりとはことばづかいも違うものだと思っていた。
婚家は商売をするかたわら、一反三畝ほどの桑畑ももっていた。心安い人から借りていたものだが、婚家の人びとはだれも蚕の飼い方を知らない。そこでCさんは店の仕事とは別に養蚕を始めることにした。蚕種はたまたま婚家の裏に仮住まいしていた上田の蚕種売りから入手することにした。ニワオキがすぎるとそれまで家のなかに置いた蚕を店先に出して並べる。風の強い日はびょうぶを立てかけて風を防いだり、店番をしながら蚕の桑くれをしたりと、なかなか大変な思いをしたが、一〇貫(三七・五キログラム)ほどの繭をとった。店の前に蚕を並べている店など珍しいのか、客が足を止めて見ていくことも少なくなかった。