Dさんは松代町西条で林業と養蚕を生業とする農家に生まれた。のちに父親が製材業を始めたために、町中に出て半農半商の家となったが、商売は父親、農家は母親と年寄りが主体となっておこなっていた。西条の農家は田が少なく、養蚕が主体だったので蚕のある時期は非常に忙しく、Dさんも手伝いをした。
町中で骨とう屋を営む婚家に嫁いだのは、昭和二十年のことだった。田畑はなく、義父は魚屋の手伝いなどもしていた。農家の生活にくらべると商家の生活は食べるものなどがぜいたくだった。物資がない昭和二十年代前半には、米の代わりにもろこしの粉で作ったパンを食べたこともあったが、正月にはかならずぶりを食べたし、いかやたこも食卓にのぼった。義父が刺身の切り方を教えたり、味付けをうるさくいったりもした。ふだんも川魚などをよく食べ、たにしの屋形煮などもした。これはたにしの殼の尻のほうにはさみで穴をあけ味噌(みそ)汁に入れたものである。夏はどじょうの太く大きくなったのを酒で殺して、そぼろのなすを入れ、鯉(こい)こくのようにして食べたりもした。こうしたものは生家では食べることがなかったものである。
Dさんは炊事と店番を主な仕事とし、店を閉めたあとはヨナベに針仕事をした。店で扱うものはいろいろだったが、義父は書画と松代焼きの掘り出しものをさがして歩くことに力を入れていた。なかでも錦絵はたくさん売れたものの一つで、東京から客が来ることがあった。客のなかにもいろいろな人がいて、書画を眺めて夜を明かすような人もいた。象山のものが手に入ったら連絡してくれなどという農家の主人が、夜遅くなって訪ねてくることもあった。こうした客たちは、たとえみなりは見すぼらしくても数寄者であり、学歴はなくても学識のあるものが多かった。
また、松代は真田家のおひざもとということで、自分は士族の出であるという意識をもつものが多く、かつては士族は士族で集まったりすることもあった。明治三十年代になると製糸が盛んになり、町の中に白鳥館という製糸工場ができた。そこで働く娘たちのなかには士族出身者も多く、法泉寺の方丈さまがお花やお茶の作法を教えに出かけていた。Eさんの母親もそうしたしつけをされた一人で、洗濯したものはきちんとたたむ、翌朝着るものは枕元にそろえておくといったことも、自分でするのはもちろんこどもたちにもきびしく教えこんだ。野良に行くときも着物をきちんと着て帯をお太鼓に結び、たすきをかけていった。足には白足袋をはき、草履をはいていったものである。草かきや鍬(くわ)などの農具は、手にぶらさげていき、かついだりなどはしなかった。かつぐのは男の持ち方で、女は男のような持ち方をしてはいけないと考えていた。
現在でもお花やお茶を習いにいく娘たちは多く、そこでかつてのように作法をきびしく仕込まれている。