第二次世界大戦は多くの男たちの命を奪ったと同時に、女性たちの生活にもさまざまな影響をあたえた。夫の留守中の食料の確保は、残された女性たちの仕事であり、町では近在の村々に食料の買い出しにいかなくてはならない人もいた。嫁入り道具としてもたせてもらった着物を売っては食料と交換するといった、竹の子生活を経験した人も多い。それまでは御用聞きや店員に使い走りを頼んでいればよかったものが、人手不足から大店の女あるじでも外に用足しに出なければならないようなことにもなった。
また、村・町にかかわらず、戦争未亡人となり、以後、女手一つで残されたこどもを育て上げたという女性や、夫が戦死したために夫の弟などと再婚する「弟直し」をして、婚家にとどまった女性もみられる。
Fさんは戦争中の昭和十七年、南信のある町から七二会に嫁にきた。婚家は中条村との境に近い、かなり急勾配(きゅうこうばい)の山のなかの道をのぼったところにある。「どんぐりだって下に転かっていくに、下から上のほうに来るものはない」といって笑われたという。結婚式当日初めて村も婚家も訪れた。昼間だとあまり山のなかだからびっくりして逃げられたら困ると、夜、わらじをはいて大安寺から人が一人通れるだけの道を提灯(ちょうちん)をつけて歩いて登ってきた。翌日、夜が明けてみたらあまりの山のなかで、本人もついてきた親戚(しんせき)や兄弟もびっくりした。夫とのあいだに一児をもうけたが、夫は戦死してしまった。生家の親は婚家にこどもを置いて戻ってこいと勧めたが、こどもと別れて生家に戻る気はしなかったため婚家にとどまり、やがて婚家のすぐ前の家の夫のいとこと再婚した。もちろん、前夫のこどもを連れてである。幸い、再婚した夫はFさんにも連れ子にもやさしく、現夫とのあいたにも何人かのこどもに恵まれて、現在はこどもたちもそれぞれに独立し、夫と二人で平穏な日々を送っている。
また、戦争で夫を亡くし、食べるために行商を始めたという人もいる。松代町寺尾などでは、農家の人びとがもち寄った農産物を競り落とし、リヤカーで引き売りをして歩く人のなかに、戦争未亡人がいた。青木島・旧長野市・川中島あたりに出かけ、商品を売りきって暗くなるころに帰ってきたものであった。