町で生活しているこどもたちが、村をどのようにみていたかという話はあまり聞くことはできない。母の里などに行くときでなければ、あえて村に行くことなどはなかったという。
ふだんの生活においては、自分の住む町のなかで過ごすことが多かった。ただ、祭りのときにはよその町にも遊びにいったし、大正時代から昭和時代の初期までは、善光寺の正信坊のオッシャン(住職)がしてくれる話を聞きに、町を越えてこどもたちが集まったという。しかし、これらは町の世界のなかのことである。そうした世界を越える機会としては、中学生くらいになって水泳やスキー・スケートなどをするときがその主なものであった。善光寺の近くのこどもたちが水泳をするときには、山王小学校の西側にあった市営プールか裾花川であり、スキーは飯綱山まで行くこともあったが、城山小学校の坂で竹スキーをすることもあった。スケートは善光寺の裏の千鳥ヶ池でも滑ったし、若槻の田子池まで滑りにいくこともあったという。そのような機会があったけれども、それによって世界が広がったとか異なる世界の存在を知ったというような強い印象を受けることはそれはどなかったようである。むしろ、経済的に豊かな家の、進歩的な父親などに東京へ連れていってもらったりしたことにより、異なる世界の存在を意識したという。村の存在は町のこどもたちにとって、それほど大きな意味をもっていなかったということもできるようである。