川などで魚を取ることもこどもたちを夢中にさせた。年長とのこどもや兄などのあとについていき、蛇籠(じゃかご)のところでは魚がよく取れるなどという、魚のよく取れる場所や、その取り方、種類なども知らず知らずのあいだに覚えた。昭和二十年代に少年時代を過ごした男性は犀川でナゲバリ(投げ鉤)をよくしたという。春や夏の夕方、釣り針を付けた竿を三本ぐらい川に投げ入れておき、翌朝早く引き上げにいくと、はや・ふな・こい・あらめなどがかかっていたし、ときにはうなぎがかかっていることもあったという。冬は氷を割って魚を取ったが、これらは食事のときの献立の貴重な一品になっていた。
どじょうやたにしなどは長野市域のどこの村においても、こどもたちの手によって捕らえられた。春先、水がぬるみ、農作業が本格的に始まるのに先立って、セゲホリ(堰掘り)がおこなわれて田植えの準備が始まる。そのころになると、用水路にイザル(小型のざる)を手にしたこどもたちの姿が目立ちはじめる。手足を泥だらけにして取ったどじょうは真水に入れて泥を吐かせ、煮物にしたり味噌(みそ)汁に入れたりしてときには食卓にのぼった。稲の穂が出るころ、いなごが姿をあらわす。朝まだ露が消えないころ、布袋を手にしていなごを捕まえに田んぼに出かけた。稲の葉の色に紛れて目を凝らさなくてはなかなか見分けられないが、葉にしがみついているいなごの動作が鈍いうちに捕らえるのである。見つかったことに気がついたいなごが、葉の裏に隠れるのをそっと手でおおい、葉に沿って手のひらを滑らせるようにして捕らえて袋に入れる。袋のなかで暴れるいなごの感触を確かめながら、しだいに重くなっていく手ごたえは収穫の喜びでもあった。